ナイトメア
 第五話 賢者の予言 1


 


『ずいぶん上達したじゃねーか』
 聞きなれた声に顔を上げると、やや癖にある黒髪に紫の瞳、日に焼けた精悍な容貌、鍛え上げられた体躯、そして子供のように明るい笑顔が視界に飛び込んできた。むき出しの大地に座り込んだまま、リーシャは描いたように形の良い眉をひそめる。
『……あんたに言われると微妙に腹が立つけどな。相変わらず涼しい顔しやがって』
『ま、その辺は経験の差だな。ほら、立てるか? そろそろ帰らねーとレイバーに怒られちまう』
『だからその余裕が腹立つって言ってるんだよ。シュリ』
 紫銀の瞳をじとりと据わらせ、リーシャは痛む体を叱咤しながら立ち上がった。
『やっぱ、あんたと組み手をやるのはこれっきりにするか。……あんたと違って容赦はないけど、まだレイバーの方が腹が立たないからな。あいつはガキ相手でも手加減しないし』
『はっ!? いや、ちょっと待てよ、そういうこと言うかっ!?』
 仮にも自分の養い親に向かってっ、と慌てた表情を作るシュリに、リーシャは意地悪く唇の端を持ち上げてみせた。ずば抜けて整った造作のせいか、ひややかな色彩を湛えた瞳のせいか、この少年には皮肉げな表情がよく似合う。頬に落ちかかる白金の髪をかき上げ、リーシャは頭二つ分ほど高い位置にある紫の瞳を見上げた。
『ばーか、冗談に決まってるだろ』
『………あ?』
『いい年して見苦しく慌てるなよ。ガキにからかわれてるようじゃ、緋の王(あけのおう)の右腕の名が泣くぞ?』
『………って、お前なぁ』
 そこでようやくからかわれた、ということに気づいたのか、シュリは肺を空にする勢いで溜息を吐いた。そのまま無骨な右手を持ち上げ、手触りの良い白金の髪を乱暴にかき回す。
『ガキが大人をからかうなよ。そういうとこばっかり周りの良くない影響を受けやがって……』
『仕方ないだろ。おれはまだまだガキだからな。周囲の大人どもがおれの先生だ』
『……そりゃま、そうしろって言ったのは俺だけどさ』
 やっぱエア・ラグナは子育てには向かなかったか、と悲痛な顔で呟き、シュリはリーシャの頭を軽くはたいた。リーシャが即座にシュリの足を蹴り返す。痛ぇっ、という声を聞きながら身を翻し、シュリの手が届かない位置まで遠ざかると、リーシャは細い腰に手を当てて笑い声を立てた。
『どうでもいいけどな。おれに一番影響を与えてるのは自分だ、ってことを忘れるなよ、養い親どの?』
『――――こんのガキ……!』
 蹴られた脛を片手でさすりつつ、シュリは情けない顔で低くうなった。それでも口元は笑っているあたりが、シュリは結局のところ親馬鹿だ、と評される所以だろう。もう一度諦めたように嘆息し、黒髪の青年は周囲を取り囲む廃墟に視線を放った。
 乾いた大地に剥がれかけた石畳、黒ずんだ壁、半ばからへし折れた街灯。道を歩けば掏りやかっぱらいに遭遇し、殺し合いがいたるところで行われ、裏道には腐りかけの死体が無数に転がっている、『未明の街』エア・ラグナでも特に猥雑な一角だ。シュリの視線を追って周囲を見回すと、リーシャは自然な動作で腰の短剣を抜き放った。
『……どうでもいいけどな、シュリ。こうなるってわかってて、何でいつもいつも第三階層まで下りてくるんだ? 別に家の近くでも鍛錬はできるだろ?』
『決まってんだろ。実戦に勝る鍛錬はないんだ。お前が少しでも上達するように、っていう、俺の涙ぐましい親心だな』
『……実戦?』
 足の裏を擦って立ち位置を変えながら、リーシャは嫌そうに稀有な美貌をゆがめてみせた。
『俺はまがりなりにも第一階層の人間だぞ? だいたい、シュリにケンカ売ってくる馬鹿なんて、頭のイカレたヤツかここに来たばっかりの素人くらいのものだろうが』
 やってられるか、と言わんばかりに吐き捨てるリーシャを見やって、シュリは紫の瞳を細めて小さく笑った。
 殺気の数は十前後。気配を消すことすらできない素人か、自分たちを舐めきっている自称玄人か、何らかの理由で精神の安定を手放してしまった輩だろう。どれも微妙だよな、と暢気な口調で一人ごち、シュリはリーシャに向かってひらひらと手を振った。
『ま、適当にやっちまっていいぞ。……あぁ、レイバーが怒り出さない程度には急いでな』
『だったらあんたもやれよ………ったく、面倒くさいだろっ!』
 言うと同時に短剣を振るい、投げつけられたナイフを地面に叩きつけると、リーシャは身軽な動作で地面を蹴った。その行動に虚をつかれたのか、崩れかけた壁の影から狼狽した気配が伝わってくる。
『いい獲物だとでも思ったのか? だったら残念だったな』
 整った唇に冷笑を刻み、舞うように崩れた壁を飛び越える。数は十人程度だ。これならすぐに片づくな、と胸中に呟き、リーシャはひどく軽やかな身のこなしで短剣を一閃させた。噴き上がった鮮血が勢いよく大気を染める。滑稽なほど鮮やかに。悲痛な絶叫のように。
『悪いな。この、エア・ラグナで生きていくなら』
 ひややかな微笑が口元をかすめた。
『これくらいは覚悟しておいてもらわないと、な』





 意識が覚醒した瞬間、リーシャはものすごく嫌そうな表情で舌打ちした。粗末な寝台の上に上体を起こし、頬にかかる白金の髪を無造作にかき上げると、顔をしかめたままで溜息を押し殺す。
「……シュリ、か」
 懐かしい夢を見たな、と刺々しい口調で呟き、カーテンに覆われた窓に視線を向けた。あまり厚くないカーテンが朝日に透け、せまい部屋を朝の光の底に沈めている。昨日はあいにくの雨だったが、今日は朝からすっきりと晴れたようで、空気も秋らしく清々しい匂いを湛えていた。
「――よぉ、ようやくお目覚めくさりやがったのかよ、リィ」
「……レギアか。どうでもいいが、朝から嫌なもの見せるなよ。ただでさえ気分悪いのが悪化しただろ。迅速に顔面を潰して来い」
「テメェの気分のために何でオレが顔を失わなきゃなんねーんだよ。っつーか、それが結界の維持を引き受けてやった相棒に対する言葉か? 他に言うことはねぇのかよ、この人格破綻者が」
「ざまあみろ」
 あっさりとした口調で言い捨て、リーシャは伸びをしながら木の床に下りた。死ねこのヤロウ、とレギアが低く毒づく。
 いつも通りのやり取りを終了させ、息のあった動作で視線をそらすと、二人はそれぞれの支度に取りかかった。リーシャは着たままだったシャツを脱ぎ、購入しておいたもう一着の上着を手に取る。その横でレギアが顔を洗う。穏やかな沈黙が癪にさわったのか、それとも単に気が向いただけなのか、レギアはタオルで顔をぬぐいながら相棒を見下ろした。
「で、シュリって誰だ?」
「おれの養い親兼師匠」
 リーシャの答えは簡潔だった。白い上着に袖を通し、細い指先でボタンを留めると、腕を伸ばしてレギアの手から銀製の瓶を奪い取る。部屋の外まで水を捨てにいくのが面倒だったのか、あるいはそれこそが日常なのか、リーシャは当然のような表情でそれをひっくり返した。零れ落ちた水は空中に吸い込まれ、一滴残らずこの場から消滅する。リーシャを守護する虚構の眷族の力だ。
 レティ、というリーシャの声に答えるようにして、空になった瓶に透明な水が湧き上がった。水の張られた瓶を卓の上に置き、リーシャはひどく優雅に顔を洗い始める。水音に混ざって不機嫌な声が響いた。
「その養い親が久しぶりにおれの夢に出てきたんだよ。くそ、ほのぼのし過ぎた夢で逆に腹が立った。どうせなら狂いそうなほどに暗く重い夢にしろっていうんだよ、気のきかない深層心理が」
 よほど機嫌が悪いのか、自分の深層心理まで罵り始めた相棒の青年に、レギアはやる気のない動作で肩をすくめてみせた。
「ざまあみろ」
「黙れ」
「テメェが黙れ。………あぁ、養い親っつーことは、今のお前を作り出しやがった諸悪の根源ってことか」
 うげ、と呟きながら端正な顔をしかめ、レギアは寝台の上にタオルを放り出した。リーシャが傲慢な態度で鼻を鳴らす。
「エア・ラグナの出身者で善良なやつがいてたまるか。もしいたら、それは無能な馬鹿か頭の弱い馬鹿かどこかが壊れた馬鹿だ。……まあ、救いようのないお人よしな馬鹿はいたがな」
「それがお前の養い親か?」
「ああ」
 レギアが何の含みもない口調で問いかけ、リーシャが驚くほど簡単に肯定の返事を返した。会話はそこで断ち切られる。場合によっては殺し合いも辞さない相棒同士だが、ある意味、この二人ほど互いの『境界線』を理解している者はいないだろう。どれだけ相手を罵ろうと、語彙の限りを尽くして言い合おうと、境界線の向こうには決して足を踏み入れない。ここから奥には踏み込むなという、相手のささやかな合図を見逃すこともない。
 だからだろうか。ここまで険悪な二人が相棒として旅を続け、共に戦ってくることができたのは。
 使い終わった水をその場に捨て、空間の狭間に吸い込ませてしまうと、リーシャは真新しいタオルに顔を埋めた。柔らかな沈黙がその場を支配したが、それをレギアの低い声が無遠慮に破る。
「で、これからどうすんだ? リィ」
「レイスバーグとやらを出来る限り惨たらしく殺してすっきりする。その後シザーのクソを頭から千切り殺す」
「俺は漠然とした今後の計画を聞いてるわけじゃねぇんだよ。これからどうやってそれを実行するかっつー、具体的かつ実現可能な方法を聞いてんだよ」
 死ねテメェ、と剣呑な調子でつけたしたレギアに、リーシャはひどくあっさりと答えを返した。
「お前が死ね。……とりあえず、まずは朝メシだな」
「………おい」
「何だその汚い顔は。レイスバーグが仕掛けてくるのは、多分遅くても明日か……下手すれば今日の夜だ。それまでに栄養補給しておくのは当然だろうが」
「その自信たっぷりな断言の根拠は?」
「それくらい瞬間的に悟れ、そして死ね」
 リーシャはひややかに紫銀の瞳を細めたが、それ以上罵倒することなく説明を続けた。レギアが会話の潤滑油として口を挟んでくる、ということをよく知っているからだ。
「レイスバーグはお前がレナ・シアリースと接触したのを知ってるんだろ? だったら、おれたちがレナ・シアリースと手を組むのは何が何でも避けたいはずだ。ああやっておれたちに姿を見せた以上、とっととおれたちを消したくてうずうずしてるだろうな」
「嬉しくねぇ話だな、おい」
「それに、レイスバーグはラジステルの高等参事官だ。自分がグランデュエルの討伐者を狩ってる、なんて公に知られたら身の破滅だからな。つまり、人の多いところで襲ってくる可能性は限りなく低い」
「なるほどな。……オレたちがそこまで読んでるのを見越して、逆に真昼間から奇襲をかけてくる可能性は?」
「それもないな。レイスバーグは自分の『男爵』の強さにかなりの自信を持ってる。『召喚』させない限りは自分たちが勝つと思ってるんだろ。勝てると思ってる相手にわざわざ奇襲をかける必要もない。……まあ、おれたちがここでレティたちを『呼び』始めたら、とるものもとりあえず飛んできて殺す気だろうがな」
 結界で覆ってあるとはいえ、高位の眷族を『召喚』する際の歪みはかなりものだ。『男爵』ともなれば、その歪みから場所を特定することなど造作もないだろう。初めから眷族たちを召喚しておく、という選択肢を取ることはできなかった。。
 面倒くせぇな、と眉間に皺を寄せたレギアを見やり、子羊を導く聖母のように笑うと、リーシャは瞳を細めて言葉を続けた。
「安心しろ。戦闘中、お前が囮になって惨殺されてる間におれがレティを呼んでやる」
「…………嬉しくねぇ。っつーか囮ならテメェがやれよ。なにしれっとして自分だけが生き残る算段を立ててやがんだ」
「嫌に決まってるだろう、この馬鹿が。少しは考えて物を言え。お前の命とおれの命、どっちが重いのかもわからないのか?」
「少なくともオレの命の方がテメェより重ぇよ。良心だの常識だの、テメェには備わってないものをしっかり持ってるからな」
「捨てろ、そんなクソの役にも立たないもの」
「うるせぇ、この人間型巨大災厄が」
 いつの間にか会話が罵りあいに変化していたが、二人にとってはあまりにも当然な日常の一部だ。いっそ胸がすくような罵倒を聞きながら、ねずみの使い魔だけが寝台で丸まり、平和なまどろみの中を漂っていた。






    


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