雨が降り止み、雲が切れ 4




 びくりと、歩き出していた青年の肩が揺れた。
 ぐっしょりと濡れた純金の髪が揺れ、信じがたいほど整った美貌がロカを振り返る。そこに浮かんだ驚愕の表情に気づき、ロカは声を上げて泣き出したい衝動にかられた。ああ、というつぶやきは声にならない。やっぱり、という思いも言葉にならない。
 それでもやはり、青年はアーシェだった。
 四年前のあの日、白い粉雪が舞い踊る中で、幻のように姿を消してしまった金色のひかりだった。
「あのっ……」
 こちらを見つめている面差しは、光の色をした髪がずいぶんと長くなったこと以外、記憶の中にあるものと何ひとつ変わっていなかった。こみ上げてきた激情を、浅くせわしない呼吸でなんとかやりすごし、ロカは混乱した頭のまま一歩前に足を踏み出す。
「おれです、ロカです……! おれを、覚えていませんか!?」
 自分でも何を言っているのかわからなかったが、ひたすら湧き上がってくる衝動につき動かされ、ロカは身を乗り出すようにしながら言葉を続けた。
「四年前のあの日、あなたに逃がしてもらったレファレンディアの兵士です! あなたはもう、おれのことなんて覚えてないかもしれませんが……っ」
 張り上げた声がかすれ、必死に凝らした視界がぶれた。久しぶりに口に出したレファレンディア、という国の名前が、アーシェ殿、という青年への呼びかけが、どうしようもなく舌に馴染んでいることを自覚してしまい、焼けつくような激情を制御することができなくなった。
「守ってもらってばかりの、頼りにならなかった少年兵のことなんて、あなたはもう忘れてしまったかもしれませんが! おれはあなたに会いたくて、会ってお礼が言いたくて……っ!」
「……」
「ずっと、あなたのことを探してました!!」
 鼻の奥がつん、と痛み、言葉の端々がどうしようもなく震えた。自分でも情けないと思ったが、それでも言葉を止めることはできない。
「本当、に……っ」
 ずっと伝えたかったからだ。
 他の誰でもない、レファレンディアの守り神に。
「守って下さって、ありがとうございました……!!」
 最後はどうしようもないほどの涙声になってしまい、ロカは言葉の勢いのまま深く顔をうつむけた。ふ、と息を呑む音が聞こえたような気がしたが、まるで頭を押さえつけられたように首から上が動かない。
 呆れられてしまっただろうか、という思いが脳裏をかすめ、ロカはあまりの情けなさに消えてしまいたくなった。
 自分でも言ったように、守ってもらうばかりだった少年兵の存在など、とうの昔のアーシェの記憶から抜け落ちてしまっただろう。ロカがアーシェと交わした会話は、避難民を守ってレフュロスに向かった夜の、あの不安と絶望に満ちた戦いが最初で最後だった。その時のロカは、なぜアーシェが自分たちのために戦ってくれるのか、なぜぼろぼろになってまでレファレンディアを守ってくれるのか、それを疑問に思うことすらない少年兵だった。アーシェは戦の神の化身なのだから、どれほど傷ついても血を流しても大丈夫なのだと、心のどこかで折れそうに細い背中を妄信していた。
 彼の姿が目の前で崩れ落ちるまで、アーシェが普通の人間のように死んでしまうかもしれないという、当たり前の可能性に思いいたることさえできなかった。
 そんな自分が、今さらあの時の兵士です、と名乗ったところで、アーシェに不要なとまどいを与えるだけだろう。深くうつむいたまま、ただ奥歯を噛みしめるロカの耳に、ともすれば聞き逃してしまいそうな靴音が響いた。
 地面に落としたままの視線の先で、古びたブーツの爪先が歩みを止める。それを認識した瞬間、ぐっしょりと濡れた砂色の髪に、ぽん、という軽い音を立てて優しい感触が降ってきた。
 ロカは大きく目を見開いた。弾かれたように顔を上げ、驚きの表情を作るロカの視界に、言葉にできないほど柔らかな微笑が映りこむ。
 それは、遠い何かを仰ぎ見るような、愛しいものを包みこむような、どうしようもなく透明で綺麗な笑みだった。
「そうか」
「え……」
「あの時の、兵士か」
 鮮やかな青と緑という、稀有な色合いの瞳が細められるのを、ロカは息を詰めるようにして見つめた。見つめることしかできなかった。
 ふいにすべるような風が吹きぬけ、腰のあたりまで伸ばされた金の髪をひるがえした。少しずつ弱まっていた雨が降り止み、頭上を覆っていた厚い雲が切れ、さらさらと散る長い髪に夜明けの光を投げかける。純金のそれが朝日を反射し、ロカの視界をまぶしい金色に染める中、形のよい唇がささやくように言葉を形作った。
 染みとおるように優しい声が、光の中にぽつん、と落とされる。
「大きくなったな」
 あ、と思う暇もなかった。ただでさえぼやけていた視界がゆがみ、目尻から頬を伝って熱い雫がすべり落ちた。
 ほんのわずかに目を見張ったが、すぐに穏やかな表情で苦笑し、アーシェはやや高い位置にある若草色の瞳を覗きこんだ。そこではじめて、大きくなったな、というアーシェの言葉通り、自分の身長が彼のそれを上回っていることに気づく。
 四年の月日が流れたのだ。
 ロカはもうあの国の兵士ではなく、アーシェはもうあの国の守り神ではない。どれだけ目を凝らしても、どれだけ強く願っても、純金の髪と漆黒の髪が隣同士で揺れる、あの一幅の絵画のような光景を見ることはできない。その事実が今になって胸に刺さり、無言のまま涙をこぼすロカの眼前で、アーシェは記憶をたどるように首をかしげてみせた。
「ちゃんと比べたわけじゃないが、あの時はまだ、私の方が背は高かっただろう?」
「……はい」
「民族的な特徴なのかもしれないな、背が高くなるのは。見違えた」
「……はい」
「あいつも、背だけは馬鹿みたいに高かったからな。……これから先も伸び続ければ、そのうちあいつくらい高くなるんじゃないか?」
「……っ、はいっ……」
 しぼり出した声が途中で引っかかり、喉が嗚咽に近い音を立てた。
 アーシェの口にしたあいつ、という言葉は、あくまでも自然に、柔らかい響きだけを耳に残した。そこからは悲哀も、後悔も、憤りも感じとることはできない。それがどうしようもなく胸に迫り、ロカは奥歯を噛みしめるようにして息を詰まらせた。
 ロカの記憶にあるアーシェの姿は、いつだって黒い髪と紅の瞳を持つ青年王の隣にあった。練兵場での訓練中に一度だけ、王と何事かを話しこんでいたアーシェが、まるで子どものように声を立てて笑ったのを目にしたことがある。大げさな表現かもしれないが、ロカにとってその光景はひとつの奇跡だった。レファレンディアの獅子王と共にある時だけ、戦神のまとう空気が柔らかくゆるむことに気づき、その様子を食い入るように見つめながらひどく幸せな気持ちになれた。
 だが、四年前のあの夜、森の中で敵の伏兵と戦ったアーシェは、どこか幾筋も皹の入る剣のようだった。ぼろぼろに傷つき、赤黒い血にまみれ、それでも折れずに光を弾く、綺麗すぎて痛々しい抜き身の刃のようだった。彼が忽然と姿を消す寸前に、ロカへと鮮やかに微笑みかけてくれた、あの表情の儚さを今でも覚えている。己の頬に血が上るのを感じながら、自覚しきれない心のどこかで、この人はもう子どものように声を上げて笑ってはくれないのだと思った。記憶の中に刻まれている楽しそうな笑顔と、自分たちに見せる凛とした後ろ姿と、最後に浮かべた透きとおる微笑の落差が悲しかった。
 そのアーシェが、ただ愛しげな表情で目を細め、何の気負いもなくあいつ、という言葉を口にしている。
 それがただ、嬉しかった。
「あ、の……っ」
 嗚咽に負けそうな喉を叱咤し、ロカは袖口であふれてくる涙をぬぐった。すでに布地がぐっしょりと濡れているせいで、顔に水をなすりつけるような形になったが、それにもかまわず何度も乱暴にこする。
「あの、アーシェ殿……」
 そうして必死に言葉をしぼり出したが、自分が何を言おうとしているのかまるでわからず、ロカは途方に暮れたように拳を握りしめた。
「あのっ……」
「――――私も、おまえたちに会いたかったよ」
 そんなロカの狼狽を断ち切ったのは、やんわりと響くアーシェの言葉だった。
「え?」
「おまえたちが、無事でよかった」
「……」
「生きていてくれて、よかった。ありがとう」
 ロカの瞳をまっすぐに見つめ、アーシェはふわりと微笑を浮かべた。記憶の中のどの表情とも違う、どこか安堵したようなその笑みに、ロカは返す言葉を失って立ちすくんだ。
 恐らく、あの森の中で別れた後も、アーシェは彼らの身を案じていてくれたのだろう。怪我人は助かったのか、遺体は埋葬できたのか、生き残った者たちは無事なのか、彼が責任を負うことなど何ひとつないはずなのに、自身の力不足を悔いて胸を痛めていてくれたのだろう。ありがとう、とつぶやいたアーシェの表情には、ほんのわずかな自嘲と、にじみ出るような安堵と、ロカたちへのまぎれもない愛情があった。それがわかってしまったからこそ、ロカは再びこみ上げてきた涙を押しとどめるのに必死だった。
 押し黙ってしまったロカを見やり、アーシェは髪を揺らしてそっと首をかしげた。口元に優しい苦笑を浮かべ、何かを言おうと口を開く。
 その時だった。しん、とした夜明けの静寂を裂き、遠くからかすかな喧騒が響いてきたのは。
 よく耳をすましてみれば、それは複数の人間の立てる足音と、間断なく張り上げられる呼び声だった。ロカー、という、聞きなれた太い声を耳が捉え、ロカは思わず崖の上を振り仰ぐ。
 ロカより先に気づいていたのだろう、声の出どころに向けた目を細め、アーシェは浮かべた苦笑を微笑にすりかえた。
「迎えがきたみたいだな」
「……みたい、です」
「おまえの仲間だろう? 今は傭兵をやってるのか」
「……はい」
「そうか」
 柔らかく微笑んだまま、アーシェはまっすぐにロカと視線を合わせた。
「レファレンディアの兵は精兵だ。あの国で戦った人間は、みんな本当に誇り高く、いい兵士だった。……王が馬鹿だったからな、それに似て、少し楽天的すぎるきらいはあったが」
 吐息混じりの笑いをこぼし、何かを追うように一瞬だけ目を閉じる、その整った面差しから目が離せない。
「それも含めて、あの戦いで剣を取った者は、みんな戦神シエルに愛されるに足る人間だったと思う」
「……」
「おまえはあの国の兵士だ。だから、強くて誇り高くてまっすぐな、そんな傭兵になるといい」
 それが、あの夜に向けられた笑顔と同じく、さよならの代わりに綴られた言葉であると、理性ではない本能的な部分で悟ってしまった。切れるほど強く唇を噛みしめ、ロカはうつむきそうになる顔を強引に持ち上げる。
 アーシェがフードを目深にかぶり、溶け込むように気配を消していたのは、傭兵たちの中で目立つことを厭ったからだろう。だが、この状況で『ティオラ』の面々とかち合えば、崩れかけた岩棚やえぐれた地面について、ロカと共に質問攻めにされるのは避けられない。
 そうなるわけにはいかないから、アーシェはロカの目の前から去っていく。
 それを引きとめることはできなかった。
 腹の底に力を入れ、奇跡のような双眸を見返す。声が震えないように細心の注意をはらい、ぶれそうになる視界を凝らしながら、万感の思いをこめてはい、とささやいた。
 真摯な返答を受け止め、アーシェはふっと唇をほころばせた。そのまま自然に足を引き、優雅な動作で踵を返そうとする。
 おーい、というロカを呼ぶ声が、先ほどよりもずいぶんと近くで聞こえた。
「――――……っ、アーシェ殿!」
 それがわかっていながら、ロカはもう一度だけ彼の戦神の名を呼んだ。嫌な顔ひとつ見せず、当然のように振り向いてくれたアーシェに、あの、と何度目になるかわからない言葉を繰り返す。
「最後にひとつだけ、聞かせて下さい」
「うん?」
 本当は、また会えますか、と子どものように尋ねたかった。だが、自分以外の何かを守るため、いつだって傷つきながら戦う優しい人に、これ以上の約束をねだることはどうしてもできず、結局はまるで違う問いかけを口の端に載せた。
「アーシェ殿は……」
 あるいはその問いも、最後に明確な言葉がほしいという、アーシェに対する甘えだったのかもしれない。
「アーシェ殿は、あの国を……レファレンディアを、愛して下さっていましたか?」
 思いもよらない問いかけだったのだろう、アーシェは驚いたように目を見張った。ぽかん、としか表現できないような、純粋な驚きに彩られた表情に、勢いこんで問いかけたロカの方がうろたえる。
 だが、浮かべられていた驚きの表情は、すぐに夜明けの光の中で柔らかくほどけた。
「ああ」
 すでにいくつもの切れ間を作りながら、なおもしつこくとどまっていた雲が動き、ひときわ眩しい光をアーシェの上に投げ下ろした。黄金よりも白金よりも澄明な輝きを見やり、ロカは祈りにも似た気持ちで似合うな、と思う。
 雨が降り止み、雲が切れ、金の光が差しこむ光景が、目の前の青年には悲しいほどよく似合っていた。
 そんなことを思うロカの眼前で、アーシェはいつか見たそれを思い起こさせる、子どものように無邪気で明るい笑みを浮かべた。
「愛しているよ」



 
 乱暴な手つきで肩をゆすられ、ロカは我に返ったように目を瞬かせた。
 気がつけば、そこには明るい光が差しこんでいるだけで、金の髪を持った青年の姿は幻のように消え失せていた。崩れかけた岩棚を滑り降り、こちらに駆け寄ってきた仲間の存在にも気づかず、ぼんやりと立ち尽くしたまま光のたゆたうあたりを見つめていたらしい。
「……リドさん」
「おう、ロカ」
 無精ひげに覆われた顎を撫で、リドはほっとした、と言わんばかりに溜息を吐いた。
「おまえなぁ、何も言わずに天幕抜け出した挙句、こんなところでぼーっと突っ立ってんなよな。こっちは散々心配したんだぞ。起きてみりゃあお前さんはいないし、どっかからはすげえ轟音が聞こえてくるし、吹きこんできた雨のせいで妙に寒いし」
「すみません……って、寒かったのもおれのせいですか」
 確かに、ロカが天幕の中で目覚めたきっかけは、入り口に垂らされた布がめくれ、吹きこんでくる風にさらされたせいだったように思う。それをどうにかしようとした矢先に、野営地を出て行こうとする細い後ろ姿を見つけ、後は夢中でその背中を追いかけていったのだから、天幕の中が冷えたのは布を放置したロカのせいといえなくもなかった。
 うーん、と首を傾げ、ひとりで考えこむ年下の同僚に、リドは呆れのこもった眼差しを向けた。
「ていうかまあ、そんなことはどうでもいいんだよ、この際。それよりもこの惨状だ。何があったってんだ?」
 周囲を見回してみれば、見知った顔もそうでない顔も、皆一様に隣の相手と顔を突きあわせ、こりゃあどういうことだ、と困惑したように首をひねっていた。まるで巨人の腕が暴れまわったように、あるいはごく小規模な地震が起こったように、崖の一部と地面がごっそりえぐれているのだ。彼らがとまどうのも無理からぬことだろう。
「ああ、ええと」
 何となくだが、まだ半分夢の中を歩いているようで、事情を説明しようとしても上手く言葉になってくれなかった。その、とつぶやきながら腫れぼったい目尻をこすり、そこに留まっていて涙の雫を払い落とす。
 リドは気づいていないようだったが、先ほどの邂逅が夢の類ではなかったことに安堵し、ロカは自分でも無意識のうちに唇の端を引き上げた。
「ロカ?」
「いえ、何でも。……とりあえず、おれ、ここで焔竜を見ました」
「……何?」
 リドの表情が引き締まり、周囲で聞き耳を立てていた傭兵たちがざわめいた。当然といえば当然の反応に、ロカは笑みを消して慎重に言葉を続ける。
「依頼にあった討伐してほしい魔獣っていうのは、地竜じゃなくてあの焔竜のことだと思います。ヴァレンディアが知ってて嘘をついたのか、知らないで依頼してきたのかはわかりませんけど」
「……」
「すみません、詳しく説明したいんですけど、おれもまだちょっと混乱してて……戻ってから、ちゃんと話すんじゃだめですか?」
「……そりゃ、構わねえけどよ。ロカ」
 あまりにも突拍子のない言葉だったからか、当惑しきった風情で顎をさすり、リドがロカの全身を眺めやった。
「焔竜を見たっておまえ、よく無事だったな」
 ひとりで高位竜に遭遇したら普通死ぬって、と続ける同僚を見上げ、ロカは晴れやかな表情で笑ってみせる。
「助けてもらったんです」
「あ?」
「ええと、その話も後で。団長にもちゃんと話さなきゃなりませんし。……それに、この依頼はたぶん、なかったことになりますから」
 わけがわからない、という顔を作るリドに笑いかけ、ロカはすっかり明るくなった空へと視線を流した。光に満ちた眩い青を仰ぎ、胸のうちで遠いな、とささやく。
 アーシェはああ言ってくれたが、ロカには恐らく、彼のような生き方も、獅子王のような生き方もできないだろう。彼らは英雄だ。歴史の中で、あるいは伝説の中で、時代が移り変わっても語り継がれるような、壮絶に美しい生き方をした一握りの人間だ。
 特別な人間でも何でもないロカは、彼らのように鮮やかすぎて悲しい道を歩くことはできない。それでも、アーシェが笑いながら言ってくれたように、強くて誇り高くてまっすぐな、そんな人間に少しでも近づきたいと思う。
 あの国を愛して下さっていましたか、と過去形で尋ねたロカに、愛しているよ、と現在形で答えてくれた金のひかりは、きっとこの世界のどこかで見ていてくれるだろう。リドに荒っぽく背中を叩かれながら、不思議と温かい胸のうちでそんなことを思った。




  


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