黄金の国レファレンディア 3


 


 背後から聞こえた深みのある声に、回廊を歩いていたクレスとアーシェはそろって足を止めた。振り返った紅の瞳が声の主をとらえ、普段からは想像もできない柔らかな笑みを作る。
「なんだ、シゼルじゃねえか。めずらしいな、おまえが神殿からこっちにくるなんて」
「いやなに、国中の空気が今までにないくらい騒いでおるでの。さてなにが起こったかと様子を見に参ったのじゃが……」
 シゼル、と呼ばれた人物はゆったりと目を細め、クレスの隣にたたずんでいるアーシェを眩しげに仰いだ。
 引きずるような長衣をまとい、手にした木の杖で石の床を突いているのは、もうじき八十歳に達しようかという小柄な老婆だった。手も足も小枝のように細く、つかんだだけで簡単に折れてしまいそうだったが、クレスとアーシェを見上げる瞳にははっとするほど明哲な光が揺れている。
 恐らくはこの城でも一目置かれる存在なのだろう、回廊で立ち止まった国王と、客人である美貌の青年と、その二人を見上げている老婆とを見やり、通りすぎていく使用人たちが深い敬意をこめて一礼した。十分な広さがあるとはいえ、回廊の中央に立っている三人は邪魔以外の何物でもなかっただろうが、彼らの存在に嫌な顔をする者は一人もいない。
 それに新鮮な驚きを覚えつつ、空気が騒いでいる、という言葉の意味を問おうとしたところで、アーシェは長い睫毛に縁取られた瞳を小さく見張った。深い皺によって大部分が隠されているが、シゼルの双眸が見紛いようのない緑色をしているのに気づいたからだ。
「……貴女は『使役系』魔術師か」
「そう、そうじゃの。とはいえ、今では若い頃の力なぞ半分以上失ってしまっておるがな。魔術を用いて簡単な失せ物を探したり、先見(さきみ)の真似事をしたりするだけのしがない婆(ばば)じゃよ」
「謙遜するなよ、シゼル。若い頃はレファレンディアきっての女魔術師だったんだろ? ギルドの方でも一目置かれてたって聞いたぜ」
 親しみのこもった表情で笑いつつ、クレスは傍らに立つアーシェに明るい色調の瞳を向けた。
「アーシェ、この婆さんはシゼル。ビルグウェイ・シゼルだ。城の中にある神殿に住んでるお抱え魔術師のひとりで、俺に魔術について教えてくれた先生みたいなもんだな」
 まあ俺に魔術は使えないけどよ、と楽しげに続けるクレスに、アーシェは納得と呆れの半々になった表情を作った。
「確かに、一国の王なら魔術についても知っておく必要があるがな。おまえはちゃんと勉強したのか?」
「あ、ひでぇっ、そういうこと言うか!? 初めて会った時だって、ちゃんとおまえが『召喚系』魔術師だって見抜いただろうが!」
「国王ならそれくらい当たり前だ。というか見抜けない方がどうかしてる。青と緑の瞳は魔術師しか持ち得ないんだからな」
 しれっとして答えたアーシェを見下ろし、クレスは「おまえって……」とわずかに遠くを見る表情を作った。それを見上げて低く笑い、枯れ木のような手でクレスの腕に触れると、シゼルは口元に笑い皺を刻みながらアーシェに目を向ける。
 緑の瞳が何かに焦がれるように細められた。
「仲がよいのはすばらしいことじゃが、婆を置いてふたりだけで話を進めないでおくれ。そうでなくともこの『ひかり』殿の存在はまぶしすぎるでの」
 深い憧憬と畏怖のまじる声音を受け、二人の若者は虚をつかれた顔で瞳を瞬かせた。
 シゼルの双眸はどこまでも真剣だった。まるで燃えさかる灯火を前にしたような、目の前に燦然と輝く太陽が下りてきたような、わずかな畏れと激しい敬慕の混在する眼差しに、アーシェは居心地の悪そうな風情で形のよい眉をひそめる。それを見やってシゼルは笑った。すべてを知っている賢者のように。
「御名を、お聞かせ願えんかの? まばゆき金のひかり殿」
「……アーシェだ。アーシェ・エリュス」
「アーシェ・エリュスか。なんと美しく力にあふれた御名よ」
 クレスの腕から片手を離し、シゼルはひどく恭しい動作でアーシェの手を取った。そのまま両手で押し頂くように引き寄せ、滑らかな手の甲に唇を落とす。
「魔術の系譜につらなる者として、理の神を信望する者として、かくも美しきひかりに出会えたことを感謝せねばなるまいの。……これでもかなり抑えられているようじゃが、気を抜けばこの老体などあっという間に焼き尽くされてしまいそうじゃ。なんとまばゆく、強く、愛と恩寵に満ちたひかり。貴き祈りの結晶よ」
「シゼル?」
 そこでようやく口をはさむことを思い出したのか、クレスがシゼルとアーシェの双方に不思議そうな視線を向けた。吹きさらしになった回廊を風が吹きぬけ、クレスの黒髪とアーシェの金髪をそよがせていく。それが重力にしたがって落ちかかるのを待ち、皺の刻まれた顔を柔らかくほころばせると、シゼルは首をひねっている青年王に慈しむような眼差しを投げた。
「よき方と出会われましたな、クレス陛下。どうぞこの出会いを大切になされよ。婆の言葉などには何の力もないやもしれぬが、このひかり殿と陛下の出会いは神々も嘉(よみ)するじゃろう」
「あ? そうなのか?」
 クレスはますます不思議そうに首をかしげたが、その精悍な面差しに浮かんだ表情は紛れもなく明るかった。
「その辺はよくわからねえけどよ、俺とアーシェは間違いなく相思相愛だぜ? 出会ったその瞬間から親友同士くらいの勢いで仲良しだしな」
「おまえと親友同士になった覚えはないがな」
 途端に上がるひでぇっ、という言葉をあっさりと無視し、アーシェは依然として自分の手を包み込んでいるシゼルに視線を戻した。青と緑の瞳が宙でぶつかり合う。一方は相手の真意を探るように、もう一方は祈りを捧げるように互いを見つめ、春の心地よい空気の中に奇妙な静寂を作り出した。
「……ひかりよ」
 やがて漏らされたシゼルの呟きは、大きすぎる喜びと悲哀を宿して複雑な響きを奏でていった。
「美しい金のひかりよ。御身をクレス陛下と引き合わせてくれた何かに大いなる感謝を捧げよう。……不遜なことじゃが、この婆の願いを聞き届けてはくれぬかの?」
「……願い?」
「そうじゃ。本当に小さな、掻き消えてしまいそうなほど儚いものじゃが、どうか大きすぎる絶望の中にひとひらの希望を与えておくれ。覆せぬ未来の中、それでもわしらが一筋のひかりを信じられるように」
「……」
「どうか、この強くも優しい獅子の王に加護を。黄金の国にひかりを」
 軽く叩いただけで折れてしまいそうな老婆を見つめ、アーシェは無意識のように流れ落ちる髪を指先ではらった。金のひかり、という呼称がふさわしいきらびやかなそれに、シゼルはアーシェの手を解放しながらうっとりと微笑する。
 その言葉はただまっすぐにクレスを案じるものだった。常に主君の安全を優先するファレオのように、純粋な敬愛をこめて王を仰ぐ騎士たちのように、レファレンディアの人間はごく自然にクレスを認め、その安寧を願い、何のてらいもなくアーシェに向かって祈りの言葉を唱えてみせる。レファレンディア・ウェル・クレスレイド様に貴方の加護を、と。
 それはアーシェにとって心地よい事実だった。胸のうちがじんわりと暖かくなるほどに。
「……私は、そこまで力にあふれた人間じゃない」
 解放された手でゆるく拳を作り、アーシェは日差しがけむるような表情で淡く笑った。
「だが、私はクレス個人に力を貸すと約束した。それ以上のことは何も保障できないし、貴女の祈りに値することができるわけでもないが、それでよければクレスのために力を尽くすと約束しよう」
 アーシェは気づいていなかった。こういった言葉が出ること自体、彼がクレスに心を向けている証拠だということに。
「もちろん、私の加護にどれほどの効果があるかはわからないが、な」
「――――アーシェ!」
 苦笑と共にそうつけ足した途端、横合いからすさまじい勢いで肩をたたかれ、アーシェは踏みとどまれずに思いきり体勢を崩した。シゼルが小さく目を見張り、ついで我が子を見守る母親のような表情をよぎらせる。おやおや、という慈愛にあふれた声は、ひどく嬉しそうなクレスの叫びによってかき消された。
「いいこと言うじゃないか、アーシェ! そうだよな、やっぱ俺たち親友同士だよな!!」
「……って、痛いだろうがこの馬鹿力! いきなり人を叩くな!!」
「んだよ、照れるなって! 俺のために力を尽くしてくれるんだろ?」
「うるさい寄るなひっつくな、暑苦しい!」
「へっへっへ」
「薄気味悪い笑い方をするな!!」
 馴れ馴れしくアーシェの肩を引き寄せ、相手の嫌そうな顔をものともせずに笑っているクレスに、シゼルは愛情と親しみのない交ぜになった笑みを浮かべた。その微笑は目の前で主君が蹴り飛ばされても揺るがない。ただやんわりと目尻を下げ、木の杖を細い手で握りなおすと、眉をつり上げているアーシェと腹部を押さえているクレスに眼差しを向けた。
 シゼルの生きた時間は彼らの数倍に及ぶ。酸いも甘いも噛み分けた彼女にとって、二十五にもなって年下の青年にじゃれつくクレスも、問答無用で国王の腹に蹴りを入れるアーシェも、手を伸ばして頭を撫でてやりたい幼子に違いないのだろう。たとえそれが唯一の忠誠を捧げる主君でも。限りない敬愛と畏怖を覚える『金のひかり』でも。
「……どうやら、婆が心配する必要など微塵もなかったようじゃな。仲がよろしいようで結構なことじゃ」
「だろ? そう思うだろっ?」
「どこがだ!」
 ほぼ同時に向けられた声を優しく受け止め、シゼルは眉をつり上げているアーシェに手を伸ばした。どこか敬虔な仕草で腕を取り、小さく見張られた青い瞳に微笑みかける。
「どうやら、このひかり殿は人との接触にあまり慣れておらんようじゃの。クレス陛下のまっすぐすぎる感情表現は不快かえ?」
「……そういう、わけじゃないが」
「それは重畳。……なに、人はそこまで恐ろしいものでもあるまいよ。ひかり殿が傍におっても、触れても、人の体はそう簡単に壊れたりはせん。特にこのクレス陛下は頑丈じゃから」
 アーシェは驚いたように目をしばたたかせ、穏やかに笑っているシゼルを困惑気味に見下ろした。
「それは……」
「婆の勘違いやもしれぬの。それならそれでよい。ただ、クレス陛下のお傍にいてやっておくれ。その悲しいほどにまばゆいひかりが、最後の、本当に最期のときまで婆の愛する坊やをまもってくれるように」
「っておい、シゼル。坊やって俺のことか? 俺もう二十五だぜ?」
 なぜか偉そうに胸を張ったクレスに、突っ込むところはそこか、というアーシェの嫌そうな声が向けられた。そのままシゼルに視線を戻し、アーシェは納得の滲んだ表情で微笑を作る。
「……そうだな。確かに、この馬鹿なら殴っても蹴っても壊れたりはしなさそうだ」
「そうじゃろう? のう、ひかり殿」
「なんだ?」
「この出会いがひかり殿にとっても幸いであればよい、と。婆は身勝手にもそう思っておるのじゃが、どうじゃ? クレス陛下はひかり殿のお目に適わんかの?」
「…………」
 それに対して答えを返しかけ、アーシェは何と言ったらいいかわからずに言葉を飲み込んだ。いつものように憎まれ口を返せばいいのか、正直な気持ちを口に出せばいいのか、それさえも判断できずに声を詰まらせる。アーシェにとって『自分の気持ち』ほど厄介なものはなかった。先ほどシゼルが言ったとおり、アーシェは他人との接触そのものに慣れていない不器用な人間なのだから。
 困ったように流れた視線が、興味津々の態でこちらをうかがっているクレスの瞳を捉えた。のんきな顔でじろじろ見るな、と八つ当たり気味に考え、稀有な美貌を思いきりしかめたアーシェに、クレスは唇の端を持ち上げて小さく笑ってみせる。好きに答えていいんだぜ、というように。
 それは不思議なほど暖かな、アーシェの肩から力を抜くのに十分な明るい笑みだった。
「……そうだな」
 途端に喉に詰まっていた何かがするりと解け、アーシェは苦笑に近い表情で傍らのクレスを見上げた。金細工を思わせる美貌がふわりと和む。
「こいつが私の目に適ったかはどうかは置いておくとして。……私は多分、この馬鹿と会ったことを、間違いだったとは思ってない」
 お世辞にも素直とは言いがたい答えだったが、シゼルは優しさに満ちた眼差しでアーシェを見やり、クレスは腕いっぱいの贈り物をもらったような表情で破顔した。懲りずに華奢な肩を引き寄せ、嬉しそうに笑いながらシゼルの顔を覗き込む。
「な、言ったろ? 心配しなくても俺とアーシェは普通に仲良しだぜ? なんてったってアーシェは俺のために光臨した戦神さまだからな!」
「だから違うって言ってただろうが。そしていい加減懲りろ! くっつくな!!」
「いいじゃねえか、友人同士のかわいいじゃれあいだろ!」
「じゃれあいとか言うな、二十五にもなって!」
 相変わらずとしか言えないやり取りを見つめ、シゼルは『使役系』魔術師の証である緑の瞳をすがめた。どこか悲しげな表情で小さく笑い、光の踊る庭園に眼差しを転じると、二人の言い合いに紛らせるようにして小さく呟く。
 天におわす神々よ、最後の慈悲に感謝いたします、と。
 






    


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