王者の帰還 2




 
 飛竜は最高位の魔獣の一種だったが、同時に竜族の中では最下位に位置する存在でもあった。高位の魔術師なら使役することも可能だし、神属リシェランディアなら一撃で葬り去ることも難しくはない。実際に飛竜と戦ったアーシェなど、数分にも満たない間に三頭を斬り捨て、特に息を乱すこともなく平然としていたのだ。
 クレスはただの人間にすぎなかったが、人の中では最高位といっても過言ではない剣士だった。
 無駄のない身のこなしで横に飛び、宙を裂いた飛竜の鉤爪を空振らせる。鋼竜や晶竜、熾竜といった高位の竜と違い、飛竜は獣よりやや優れている程度の知能しか持たず、彼らのように自然の力を用いた魔術を扱うこともできない。
 それがわかっているからこそ、飛竜の顎の前にためらいなく身をさらし、クレスは見事な拵(こしら)えの長剣を握りなおした。そのままの勢いで斜め上に振り上げ、無防備だった飛竜の前肢に深く斬りつける。ギチッという耳障りな音と共に、鱗に守られた前肢の一部が引き裂かれた。
 クレスが手にしているのは、以前使っていた大剣とは少々異なる、美しい細工の施された黄金作りの長剣だった。
 大国と呼ばれる国家の常として、レファレンディアには神々より下賜されたという宝剣や、竜族の長と友誼の証として交換した冠、神属リシェランディアの名工が手ずから作った甲冑など、出自の定かではない品々が数多く受け継がれている。どうせ略奪の対象となるなら、レファレンディアを守るために使われた方が幸せだろうと、ファレオが止めるのも聞かずに引っ張り出してきたのだが、今回の戦いではその行動が幸いしたと言えた。
 飛竜を守る赤褐色の鱗に対し、人間の扱う武器はあまりにも脆すぎた。間近で矢を射かけても、剣の切っ先を叩きつけても、その鱗にかすかな傷を残しただけで弾き返されてしまう。竜族たちの持つ鱗の頑丈さこそ、彼らを魔獣の長たらしめている最大の要因だったが、それとて打ち破ることのできない無敵の装甲というわけではなかった。
 怒り狂う飛竜から距離を取り、クレスは感心したように手の中の長剣へと視線を落とした。
「……何だ、普通に使えるじゃねえか」
 神々より下賜された、という伝説はあながち誇張でもなかったらしく、クレスの宝剣は飛竜の鱗を切り飛ばし、それに守られた体を傷つけることに成功した。緑がかった色合いの血が噴き上がり、白金色の刀身に禍々しい模様を描く。
「こりゃご先祖さまに感謝だな。アーシェみたいにはいかねえけど、これならこのトカゲとも戦えそうだ」
「そんなことを言ってる場合ですか!」
「わかってるって。おまえこそこんな状況で怒鳴るなよ」
 普段どおりの飄々とした受け答えに、ファレオは矢をつがえたままきりきりと眉をつり上げた。もう少し緊張感を持って下さいっ、と悲痛な声で絶叫し、まるでその怒りをぶつけるように引き絞った矢弦を放す。
 アーシェの常人離れした技量には及ばなくとも、ファレオはレファレンディア内で一、二位を争う優れた射手だった。力強い音を立てて大気を裂き、放たれた矢が唯一の弱点といっていい飛竜の目を狙う。一本目の矢は翼によって叩き落され、二本目の矢は飛竜の首に振り払われたが、三本目の矢が隙間をつくようにして濁った色合いの目をかすめた。
 傷を負わされた段階になって、ようやく相手が警戒に値する敵だと認識したのか、飛竜は一度空に舞い上がってから鋭い叫び声を上げた。片目から体液をまき散らしつつ、長剣を構えたクレスに改めて襲いかかってくる。
 すさまじい勢いで降下してきた飛竜を見据え、クレスは足場を踏みしめる両足に力をこめた。次の瞬間、飛竜の巨体が石壁を崩しながら上体にぶつかり、決して小柄ではないクレスの体を宙に浮かせる。クレスレイドさまっ、というファレオの悲鳴が耳をかすめたが、そのまま背後に弾き飛ばされることをよしとせず、クレスは渾身の力をこめて手にした長剣を前へと突き出した。
「この……っ!!」
 アーシェと飛竜との戦いによって、口腔内が外側ほど頑丈でないことは証明されている。牙の食い込む痛みを意識から締め出し、クレスは手にした長剣をさらに奥へと突き入れた。
 一瞬の間をはさんだ後、ずぶっという音と共に切っ先が突き抜け、飛竜が激しく身をよじりながら絶叫を放った。
「……うぉっ!」
 痙攣じみた激しい動きに耐えかね、柄を握ったままのクレスの体が宙に放り出された。深く突き刺さっていた長剣が抜け落ち、噴き上がった鮮血が周囲に時ならぬ緑の雨を降らせる。
「クレスレイドさまっ!!」
 石作りの地面に叩きつけられ、それでは止まらず二転、三転したクレスに、ファレオが蒼白な顔色で叫び声を上げた。護衛官としては当然の反応だろう。ファレオの叫びに反応し、全身のばねを使って跳ね起きたクレスは、暴れまわる飛竜の爪をぎりぎりで避け、間髪いれずに振るわれた尾を長剣の腹で受け止めてみせた。弾き飛ばされることこそなかったが、横殴りの衝撃にクレスの腕が悲鳴を上げる。
 そこに弓から放たれた矢が飛来し、無事だった方の片目に深々と突き刺さった。飛竜の体がびくんと震え、狼狽したようによろめきながら背後に下がる。
 クレスはその隙を見逃さなかった。
 受け止めていた尾を跳ね飛ばし、そのままの勢いで右手の長剣を薙ぎ下ろした。飛竜の頚部が鱗ごと切断され、異様に濡れた音を立てながら足元の地面に叩きつけられる。アーシェのそれと比べても遜色のない、体重と速度の乗った精妙きわまる一撃だったが、クレスにその結果を確認するだけの余力は残されていなかった。
「……クレスレイドさま、ご無事ですか!?」
 長剣を下げたままふらりとよろけ、足元の地面に片膝をついたクレスの姿に、ただでさえ蒼白だったファレオの顔から血の気が引いた。使わなかった分の矢を矢筒に戻し、飛竜の屍を迂回しながらクレスのもとに走り寄る。
 長剣を握っていたクレスの右腕は、飛竜の牙によって大きく抉られ、肘の部分から手首にかけて鮮血が滴り落ちていた。命に関わるほど深い傷ではないが、きちんと手当てしなければ腕に障害が残るかもしれない。自身のマントを引きちぎるように外し、ファレオは細く切り裂いたそれをクレスの腕に巻きつけた。
「あなたは……あまり無茶をしないで下さいと、いつもあれほど……っ」
 自分よりよほど痛そうなファレオの表情に、クレスは平然とした態度で小さく笑ってみせた。
「別に余裕だぜ? このくらい」
「あなたは……っ!!」
「本当に余裕だって。アーシェなんかあれだけざっくり全身を斬られたんだ、これくらいで痛がってたらあいつに申し訳ねえだろ?」
「……それはそう、ですが!!」
 ファレオの顔が激しくゆがんだ。ファレオはクレスの忠実なる臣下だが、同時に幼い頃から共に過ごしてきた幼馴染でもある。誰よりも強くその身を案じ、できるなら傷つかないでほしいと願うのは当然のことだった。
「そんな顔するなよ。腕が使い物にならなくなるほど深い傷じゃねえんだ、止血さえしとけばどうにでもなる」
 クレスはなだめるようにそう言ったが、ファレオは即席の包帯を傷口に巻きつけつつ、不安と疑いの入り混じった目で主君を見やった。あなたの大丈夫は信用できません、と言わんばかりの視線に、前科のあるクレスは視線を泳がせながら頭をかく。
「あー……」
 激情に揺れる琥珀色の瞳を見返し、クレスがかすかな苦笑と共に言葉を続けようとした、まさにその瞬間のことだった。
 少しずつ明度を落とし始めた夕日の中で、その赤い色彩すら圧倒する白い光が爆発し、足場の一角を完膚なきまでに突き崩してのけたのは。
「……な」
 目を見張ったクレスの視線の先で、純金色の髪を持つ青年が王城の壁に激突し、その勢いを物語るように華奢な背をのけぞらせた。そのままずるずると足元に崩れ落ち、壁と地面に夕日とは異なる赤い色彩を広げていく。
 嫌な匂いのする風が吹きぬけ、光の色をした長い髪を大きく乱した。
「…………アーシェッ!!」
 喉を枯らす勢いで叫んだクレスに、アーシェの答えが返ることはなかった。




 視界の縁をかすめていった鮮血に、クレスの名を絶叫するファレオの声に、ほんの一瞬だけレガートから意識をそらしてしまった。
 それは一秒にも満たないほど短い時間だったが、手練れ同士の戦いにあっては取り返しのつかないほど致命的だった。嘲りに満ちた表情で冷たく笑い、レガートが直に触れるほど近く右の手を振り抜く。上がりすぎた温度を示しているのか、赤ではなく白に染まった炎が爆発し、まるで風に舞う木の葉のようにアーシェの体を吹き飛ばした。
 重い音と共に王城側の壁に叩きつけられ、そのあまりの衝撃に呼吸がつまった。糸が切れたように膝が落ち、壁にすがったまま石作りの地面にくずおれる。
「…………ハッ、……っ」
 耐え切れないほどの負荷に骨が悲鳴を上げ、大きく見開いた視界に深紅の靄がかかった。胸部が、腹部が、左肩が、それぞれ焼けつくように激しい痛みを訴えている。爆発した炎が皮膚を抉り、その奥の体組織を溶解させ、常人なら正気を失ってもおかしくないほどの痛みを与えているのだ。うるさいほどに騒いでいるのが心臓の音なのか、それとも流れ出す血が奏でる音なのか、そんな簡単なことすら判断することができなかった。
 損傷の少ない右手で傷口を押さえようとするが、まるで地面に縫いとめられたように腕が動かない。
「……アーシェ!!」
 声の限りに友の名を絶叫し、クレスがうずくまっているアーシェのもとに駆け寄ってきた。周囲に立ち込める熱の余韻にも構わず、レガートからアーシェをかばうように長身を割り込ませる。
 かすむ視界にクレスの姿を捉え、アーシェは声にならない声でやめろと叫んだ。叶うことなら今すぐ飛び起き、クレスに向かって逃げろと怒鳴りたかったが、声を出そうとしたとたん喉に熱い何かがこみ上げてくる。堪えきれずに激しく咳き込み、声の代わりに決して少なくはない量の血を吐き出した。
 弾かれたように背後を振り向き、クレスは紅の瞳に何とも表現しがたい色をよぎらせた。唇がアーシェの名前を作りかけるが、その衝動を振り切るように拳を握りしめ、友をかばいながら目の前のレガートに向き直る。
 それをひややかな眼差しで見やり、レガートは白の長衣に包まれた肩へと右手をやった。肩からあふれた鮮血が腕を伝い、透きとおるような石材の地面に赤い水溜りを作っている。間近で爆発した炎を受け、そのまま背後に吹き飛ばされたアーシェが、決して手放さなかった細剣を突き出し、レガートの肩に浅いとは言いがたい傷を残していったのだ。とっさに身をよじらなければ首をもっていかれたところだった。
「……ふざけるな。これがリシェランディアでないなら一体何だ? まさか普通の人間だとでもいうつもりか」
 独白めいた言葉にも、かすかにすがめられた碧の瞳にも、意志の力ではどうすることもできない苦痛の色が見え隠れしていた。右手に治癒の力を宿らせ、どくどくと流れ出す血を強制的に止めながら、レガートは得体の知れないものを見る目で倒れたままのアーシェを睨みつける。
 常人離れしている、などという言葉で片づけられる力ではなかった。それは神属リシェランディアというより、至高の存在である戦神シエルを思わせる、ただの人間が持ちえるはずのない桁外れの身体能力だった。
(――――これではまるで)
 無意識のうちに呟きかけたところで、レガートはすぐさま湧き上がってきたその思考を打ち消した。
(いや、違う。この男は違う。……『彼』ではない)
 首を振ることで埒もない思考を追いやり、こちらを見据える黒髪の青年王に意識を戻した。真横にひかえたファレオの矢が、寸分の狂いもなくレガートの眉間に狙いを定めていたが、彼にとっては人の手によって作られた武器など子ども騙しの玩具に等しい。人差し指を軽く振ってみせるだけで、あるいは頭の中で命令の言葉を作ってみせるだけで、脆弱な弓矢などあっという間に塵に変わってしまうだろう。
 それでも、彼らの存在は邪魔だった。
「……レファレンディアの国王」
 正体のわからない感覚が警鐘となり、耳の奥でわずらわしいほど大きな音を鳴らしていた。その音に無視し得ない何かを感じながら、レガートはあえて胸を騒がす感覚に目をつむり、立ちはだかったクレスに見せつけるような笑みを向ける。
「邪魔だ。おまえも殺すぞ」
「……ざけんじゃねえよ」
 恐怖も絶望も込められていない口調で言い捨て、クレスは白金に煌きわたる長剣を構えなおした。両者の力の差は歴然としていたが、クレスの瞳から強靭な意志の光が失われてしまうことはない。
 それどころか、直後に浮かべたのはなおも不敵な微笑だった。
「アーシェがてめえごときに負けるはずがねえんだよ」
 虚勢を張るわけでも、現実を否定するわけでもなく、クレスは笑みを浮かべたままさらりと言い切ってみせた。
「アーシェの方が強いんだからな」
「――――下らんことを」
 戯言だな、という憎々しげな呟きと共に、レガートはべっとりと赤く染まった手のひらを高く差し伸べた。そこに淡く輝く光の粒が吸い寄せられ、空気を焦がしながら子どもの頭ほどもある球体を編み上げていく。
「死ね」
 それは決して逃れることのできない、魔術師の王による絶対的な死の宣告だった。
 ただの人間でしかないクレスたちに、レガートの振るう圧倒的な力を退ける術はなかった。
 その、はずだった。






    


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