ナイトメア
 第二話 最後の十字架 2


 

 そこは、カイリに説明されていた通りの、ぼろぼろに朽ちかけた神殿の跡地だった。
 かつては透きとおるような白さを湛えていただろう壁は、ところどころに皹が入り、風雨にさらされて鈍く黒ずんでしまっている。屋根は半ば崩れ、等間隔に並んでいる列柱も長さがまちまちだ。信心深い神父が見たら泣き崩れそうな光景だったが、リーシャとレギアにとってはそれも予想通りの惨状に過ぎない。列柱の間を足早に進みつつ、リーシャは軽く視線をめぐらせて頷いた。
「これなら十分雨が避けられそうだな。火でも焚けば暖かくなるだろうし」
「そりゃあいいけどよ、燃やせそうなモンがこの辺にあるか? このままじゃ風邪ひくぜ、オレ」
「馬鹿のくせに風邪をひく気なのか、レギア?」
 濡れた上着の上から両腕をさするレギアに、あつかましい、とでも言いたげな冷たい視線が向けられた。そのままさっさと礼拝堂に足を踏み入れ、水を吸って重くなった上着を脱ぎ捨てると、リーシャは屋根が残っている奥まった部分を物色し始める。
 レギアも嫌そうに眉を寄せながら上着を脱いだ。この程度で風邪をひくような可愛げは持ち合わせていないが、濡れた衣服を身に着けているのは存外不快なものなのだ。黒い上着を力いっぱい絞ってバタバタとはたき、それを傾いた柱の残骸に引っ掛けたところで、リーシャがいくつかのゴミを拾い上げて戻ってきた。
「これなんかいいんじゃないか? 濡れてもいないし、よく燃えそうだ」
 ほっそりとした白い手が摘み上げているのは、埃をかぶった小さな木の箱や、頭の部分が欠けてしまっている木製の像、そしてやはり木で作られた可愛らしいロザリオだった。寄せ木細工の小箱も、神を象ったらしい木像も、精緻な細工が施されたロザリオも、かつては美しい装飾品の一端として礼拝堂を飾っていたのだろう。
「ああ、いいんじゃねぇ? やっぱ木じゃねえと燃えねえし、この辺じゃ薪拾いも出来なさそうだしな」
 だがそれも、二人にとっては単なる薪の代用品にすぎない。容赦なく祭壇の下に積み上げられ、食用の油を振りかけられて、あっという間に簡易焚き火の材料にされてしまった。
「レギア、火はお前がつけろ」
「何でオレがやんなきゃなんねえのが、オレにわかるように説明してみせろ」
「黙れ。四日前、エデルの街を出る時に『飛んで』やったのは誰だ?」
 ふざけたことほざくとお前も燃やすぞ、というリーシャの言葉に、レギアは低く舌打ちした。相棒とはいえ、両者の間では貸し借りの概念が徹底している。無償の奉仕、あるいは見返りを求めない助け合い、などといった言葉は、二人の知る世界から絶滅して久しいのだ。
 レギアはぐっしょりと濡れた黒髪をかき上げると、不満そうに顔をしかめながらも相棒に頷いてみせた。
「これで借りはなしだからな」
「まあいいだろう」
 偉そうに腕を組む青年に「死ね」と毒づき、レギアはどっかりと焚き木の前に座り込んだ。その上に軽く手をかざすと、紺碧の瞳をすがめるようにしながら静かにささやく。
「………『ティーエ』」
 穏やかなその響きに答えて、かざされた手のひらから金色の粒がいくつも舞い落ちた。羽のように宙を舞った火の粉は焚き木にかぶさり、パチパチ…と何かが爆ぜる音を立ててから、弾かれたように大きく橙色の炎を生み出す。小箱や像、ロザリオを暖色の舌で舐め上げ、礼拝堂の冷たい空気を熱で染め変えた。
 リーシャも当然のようにその前に座り、肌に張りつく衣服の袖を片手で絞った。
「ったく、冗談じゃないな。おれはお前と違って繊細なんだ、それこそ風邪をひいたらどうしてくれる」
「あー、お前ってアレだしな。ぶっとい棘のついた鋼鉄の精神のくせに、妙に軟弱だよな、体は」
「ドテッ腹に穴が開いても、次の日にはけろっとして日常生活を送ってるクソといっしょにするな」
「うるせぇ虚弱体質」
 二人にしてみれば、これも何の変哲もないいつも通りの会話である。相手を見もせずに悪口雑言の応酬をしつつ、レギアは皮袋から携帯食を取り出し、無造作に干し肉を切り分けてリーシャに放り投げた。
 それを軽く片手で受け取ると、リーシャも当然のように真水の入った筒の蓋を開け、一口あおってから蓋も閉めずに相棒に放り投げる。仲が良い、などと言われたら相手を殴り殺しかねない二人だが、なぜか食料は共有でも腹が立たないらしい。
 レギアはともかく、リーシャは天上から降り立った輝ける天使のような美貌だ。それが無造作にあぐらをかき、手にした干し肉をちぎって口に放り込んでいる様は、廃墟となった礼拝堂とも相まってどこか冒涜的ですらあった。
 見慣れた光景に肩をすくめると、レギアもひんやりと冷えた水を喉に流し込み、さして美味とも言えない携帯食を噛み砕く。二人とも食事に集中しているためか、寂れた礼拝堂にすさまじい沈黙が圧し掛かってきた。
 だが、二人はそれを苦に思うようなしおらしい性格をしていなかった。黙々と栄養摂取にいそしんでから、焚き火の上で軽く手をはたき、手のひらについた干し肉の屑を払い落とす。それがぱらぱらと炎の中に落ちるのを確認して、二人はどちらからともなく嘆息した。
「………まったく、服が乾くのくらい待っていられないのか? 世界に蔓延する脳が不憫な馬鹿どもは」
「待ってらんねえんだろ。せめてもっとうまく気配殺せよ、とか思うけどな」
 呆れと嫌悪がこもった呟きに答えるように、崩れかけた列柱の影からいくつもの人影が進み出てきた。いたるところが擦り切れた粗末な衣服に、無駄なまでに盛り上がった両腕の筋肉、そしてこれ見よがしにつけられた体中の傷など、先ほどカイリを襲った輩と似たり寄ったりないでたちだ。
 数はおおよそ十数人。ゆるく円を描くように移動して二人を囲むと、男たちはにやにや笑いながら手にした武器を振ってみせた。
「………よう、アンタら、こんなところで雨宿りか? 別に構わねえんだけどよ、ここはオレらの寝床なんだよなー」
「ああ、勘違いすんなよ? 何もこんな雨の中に追い出そうってわけじゃねえんだ、濡れちまったらかわいそうだもんな。ただ、まさか無料でここに泊めて下さい、なんて言うつもりはねえだろ?」
「大丈夫だって、お金払ってくれたらオレたちなーんにもしないよ? こんな土砂降りの雨じゃあ、オレたちも外に行けねえしさぁ。仲良くしようぜ、なぁ」
 下品な笑い声を立てて、男たちは二人に向かってじりじりと歩を進めてきた。言葉とちらつかせた武器、その両方で相手を萎縮させ、無抵抗になったところで金を奪うつもりなのだろう。実際、男たちはそうやって生計を立ててきた生粋の盗賊だった。
 だが、まるで天使のような美貌の青年も、座っていてもわかる鍛え抜かれた長身の男も、怯えるどころか面倒くさそうに溜息を吐いた。
 そのままゆっくりとした動作で立ち上がり、男たちに無造作な一瞥を投げかける。観察するように何度か視線をめぐらせた後、リーシャはまだ湿っている細い髪を払ってレギアを見返った。
「さっきの手合いとまるで同じだな。いい加減、おれは飽きた。お前にか任せる」
「…………嬉しくねー。っつーかさっきのは、お前が『いい度胸だ』とかぬかして勝手に殴りかかっていったんだろ」
「うるさい。何でおれが一日に二度も、こんな社会不適応者どもを相手にしなきゃならなんだ? しかも数頼み、武器頼みだぞ? 軽く救いようがないだろう、頭が」
「まったく異論はねえが、オレにも叩きのめす相手を選ぶ権利くらいあるだろうがよ」
 盗賊たちのことなど忘れたような会話は、額にくっきりと青筋を立て、口元を引きつらせた当の盗賊によって中断させられた。
「…………テメェら、さっきから黙って聞いてりゃあ、オレらをナメてんのか? どういうつもりだ」
「どう?」
 低く押し殺したその声に、リーシャはゆるりと首を傾げてみせた。愛らしくさえある仕草だが、怒りに打ち震えている相手には嘲っているようにしか映らない。事実リーシャは嘲っているのだが。
「決まってるだろう。どっちが可哀想なお前らを構ってやるか、押しつけあってるんだよ」
「――――――テメェッ!!」
 リーシャが優雅に微笑むと同時に、正面に陣取っていた男が怒声を張り上げた。湾曲した剣を大げさに振りかざし、細身の青年に向かって突進してくる。一拍遅れて他の男たちも続いた。リーシャは慌てずに嘆息すると、当たり前のような動きで一歩背後に下がった。
 振り下ろされた錆びだらけの剣は、ひょいと伸ばされた二本の指によって受け止められた。
「結局オレがやんのかよ、面倒くせー」
「ま、とにかく任せた」
「貸し一つだからな、リィ…………っと」
 目を剥いた男を尻目に、レギアはがっちりと刃を挟んだ指を捻ってみせた。鈍い音を立てて切っ先がへし折れ、男は勢い余ってたたらを踏む。手に残った刃の残骸を軽く放り出すと、レギアはそれを靴底で踏み潰し、ことさら緩やかに唇の端を吊り上げた。
「本当に面倒くせーからな、とっとと終わらせるぞ、テメェら」
 響いた声は簡潔だった。
 ドゥっとくぐもった音を立てて、レギアの膝が男の腹に埋まった。胃液を吐き出して体を折る男を蹴り飛ばし、体を捻り様に別の男の腕を捕らえると、片腕だけで力任せに投げ飛ばす。その直撃を食らった二人が悲鳴を上げ、鼻血を撒き散らしながら石の床に倒れこんだ。
 男たちは一瞬怯んだようだったが、レギアは退くか進むかを決める時間を与えず、一人の襟首を掴んで地に叩きつけた。そのまま身を翻して足を蹴り上げ、隣にいた大男の顎に靴裏をめり込ませる。鈍い音と共に巨体が浮き、奇妙にねじれた格好で背後に倒れかかった。
 一人で十数人を相手取りながら、決して背後を取られることも隙を見せることもない戦い方は、相棒であるリーシャのものとよく似ていた。だが、二人の戦闘方法には似ているようで根本的に違っている。
 リーシャの動きは速さに重点を置いたもので、動きも必要最低限に抑えられていた。もともと彼は後衛であり、拳の代わりに鎖や短剣を使って攻撃するのだ。一撃一撃は軽くても、それで十分致命傷を与えることができるのである。
 一方、レギアは典型的な前衛の剣士で、攻撃の一つ一つが非常に重い。型も荒っぽく見えるが、正規の訓練を受けた軍人の動きに近しいものがあった。
 もっとも、男たちにそれを理解する時間は与えられていなかった。肋骨が折れたとしか思えない音と共に、一際大柄な男が壁に叩きつけられ、そのままずるずると床に崩れ落ちていく。この男が最後だった。見れば、立ったままのリーシャの足元にも男が二、三人転がっている。人質にでもしようとして返り討ちにあったのだろう。
「………取りこぼすなよ、余計な労力を使う羽目になっただろ」
「そりゃあ大変だったな、オレが悪かった」
 レギアの言葉を直訳すれば「ザマアミロ」である。気づいていて放置していたのは明白だった。リーシャはそれに肩をすくめてみせ、転がっている男の一人を足先でつついた。
「何て典型的なヤツラだ、ったく………いくらなんでも、お前らは『刻印の保持者』について知ってたはずだろう? それとも教えられてなかったのか? だとしたらとんだ捨石扱いだな」
 リーシャは呆れたように呟いたが、足蹴にされた男の方は意識がないようだった。それを無機物でも見遣るような目で見下ろし、リーシャはは薄く紫がかった銀の瞳をすっと細めた。
「出てこいよ、いるんだろ?」
 この声に答えたのは、カツンという妙に軽い足音だった。
「…………うわぁ、やっぱバレてたんだ、ちゃんと隠れてたつもりだったんだけどなー」
 明るい声でそう言いながら、柱の背後から小柄な人影が歩み出てきた。頭の後ろで両腕を組み、無邪気な仕草で小さく首を傾げる。印象的な夜空色の双眸が、リーシャとレギアを映してきらきらと輝いた。
「やっぱすごいね、兄ちゃんたち! あんな雑魚じゃあちっとも相手になんないや。…………まあ、刻印の保持者に一般人が立ち向かえ! ってのもちょっとかわいそーだったかな」
「そうだな。保持者は保持者同士、刻印の力を使って戦った方が平等だろうよ」
 冷ややかに瞳を細めたまま、リーシャは首にかけられた鎖に手を伸ばした。レギアも一歩前に出ながら、隙のない動作で『シェルダ』の柄に指を這わせる。音もなく高まっていく殺気の中、リーシャの涼やかな声だけが凛冽に響いた。
「―――――なあ、カイリ?」
 その声を受けて、焦茶色の髪に夜空色の瞳を持った背の低い少年は、にこりと笑って踊るように足を踏み出した。





    



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