ナイトメア
 第三話 静けき真夜中 4





 ゆっくりと持ち上げられたグラスが照明に透け、深紅の液体を妖しく輝かせた。それを楽しむように軽く揺らし、感情のこもらない青灰色の双眸を細めてから、シアリースはレギアに見せつけるようにしてグラスを呷る。お前は飲まないのか、と言外に告げてくるその動作に、レギアはきつく眉を寄せながらグラスを掲げた。
「……依頼、だと?」
「そう、依頼だ。グランデュエルの守護者たる『十字架の』レギア・ブライトに、ではなく、討伐者である刻印の保持者に。謝礼は十分に支払うが、話だけでも聞く気はないか、十字架の?」
 空になったグラスを卓上に戻し、シアリースは無造作な手つきで口元を拭った。隙のない動きも、相手を射抜くように向けられる眼光も、やはり王というよりは武人のそれに近いものだ。同じように瀟洒なグラスを干して、レギアはことさら冷ややかに唇の端を持ち上げて見せた。
「聞く気はねぇ、つっても簡単に帰すつもりはねぇんだろ? いいぜ、一国の王ともあろう者が、オレに何を頼みたいっていうんだ?」
 いつの間にか扉の前へ移動し、わざと気取られるような動作で剣の柄に手をかけていたルルが、レギアの言葉を受けてにこりと笑った。シアリースも薄く口元に笑みを乗せ、ワインの瓶を引き寄せながら口の部分をレギアに向ける。
「依頼内容はラジステルの門閥貴族、宮廷の高等参事官レイスバーグの暗殺。およびその守り手たる虚構の眷族『男爵』の抹消だ」
 遠慮なくグラスを突き出し、一国の王に極上のワインを注がせたレギアは、ひどくあっさりと響いた言葉に小さく眉を上げた。
「………暗殺?」
「ああ。……なぜ討伐者に暗殺を依頼するのか、という顔だな。これ以上適切な人選は他にないと思うのだが」
「へぇ、良ければ理由をお聞かせ願いてぇな」
 ワインを一口含んだだけでグラスを下ろし、これ以上飲む気が失せた、と言わんばかりの動作で肩をすくめると、レギアは紺碧の双眸を冷たく眇めた。シアリース自ら注いだワインである。王に対してこれ以上無礼な態度もなかったが、眼前でグラスを傾けるシアリースも、扉を背にして武器を手にしたルルも、媚びない態度が心地よいとばかりに淡く微笑した。
「理由か。ならばまずは一つ。レイスバーグはラジステル王の臣下だが、実際は私の政策に反対する者の筆頭でもある。その最たるものが『剣』の大帝国ユグレストとの休戦協定、および『杯』の聖皇国グランデュエルとの同盟締結だ。両国と条約を結ぶに当たって、わがラジステルは領土の問題でも、竜の守護三国間の力関係でも大きく譲歩せざるを得なかった。レイスバーグをはじめとする反対派はそれが許せんのだろう」
 『盾』の公国ラジステルには王政が敷かれているが、他の二国とは違い、王下評議会(おうかひょうぎかい)と呼ばれる議会が設置されている。最終的な決定権は王にあるものの、評議会は可否を仰ぐべき事柄を選択する権利を持ち、過半数の賛成をもって王の決定に『反対』することも許されているのだ。ラジステルが公国と呼ばれる所以である。
 王の一存で評議会の決定を覆すことも可能とはいえ、議員たちの発言力はかなり大きく、ラジステルの政治は彼らなくしては語れないとまで言われていた。だが、ユグレストとの休戦協定やグランデュエルとの同盟締結は、議員の反対をすべて退ける形で決定されたものだったのだ。
「彼らの意見もわからなくもない。ユグレストと休戦協定を結ぶに当たって、かねてから問題になっていたカナ鉱山の利権を譲ることになったし、グランデュエル側にもこちらが低姿勢に出ざるを得なかったからな。その程度の譲歩は問題にならぬと言っているのに、頭の悪い議員たちはどうしてもそれがわからないらしい。………レイスバーグは、その反対派の筆頭だ。特にグランデュエルとの同盟締結は許せぬらしく、ことあるごとに戦端を開くべきと主張してくる」
「………ああ、『緋月の守護者(ひげつのしゅごしゃ)』と討伐者はクソ仲悪ぃからな。我こそは大陸の平和を守る者だっつーわけわかんねぇ矜持があんだろ? そのせいかどうか知らねぇが、グランデュエルの中にもラジステルを敵視するヤツがかなりいる」
「それも一因であろうな。まあ、この際不和の理由などどうでも良い。問題は、レイスバーグの守護についたのが男爵階級であること、そしてその男爵を使って各国に散った討伐者を『狩って』いるということだ」
「………何?」
 レギアの瞳がすっと細まり、場に満ちる空気が音もなく密度を増した。椅子の背もたれに体重を預け、ゆったりと両手を組み合わせた格好で、シアリースは物理的な圧力さえ伴った眼光を受け止める。
 青灰色の瞳には何の感情も映っていなかった。
「お主たちとて襲われたのだろう? ディナリスに続く山道で、『男爵』に頼まれたという『騎士』階級の眷族に。レイスバーグの意図はわかりすぎるほどにわかっている。グランデュエルの討伐者を襲い、それがラジステル側の差し金であると匂わせることで、両国間の仲に皹を入れようとしているのだろう。無論、上手く討伐者を殺せなかった場合は簡単に退いているがな。そのせいでますます証拠を掴みづらくなっている、というのが現状だ。……どうだ。これで私がお主に依頼した理由がわかったか?」
「――――理由だけはな。だが色々と解せねぇことはある。あんたは仮にも王だろう? そこまでわかってるんだったら、王様の権力なり何なり使って、そのレイスバーグとやらを追放でも投獄でもすりゃあいいじゃねぇか。それとも証拠が上がってねぇのか?」
「それもある。が、それだけではないな」 
 静かに両手を組みかえ、何かを言いたげに扉の前のルルを見てから、シアリースは重々しく口を開いた。
「これはレイスバーグ一人の問題ではないのだ。彼一人を罰したことで、他の反対派の暴走を招いては元も子もない。さらにはこれ以上、ユグレストとグランデュエルに隙を見せるわけにはいかないという事情もある。どうだ、十字架の。同僚である討伐者が狩られているのだ、お主たちとて対策を講じないわけにはいくまい。これは対等な取引だと思うのだが」
「はん、なるほどな」
 グランデュエル側としても、誉れ高き討伐者が何者かに狩られているなど、間違っても他国の耳には入れたくない事態だろう。そちら側にとっても他人事ではないぞ、とシアリースは言っているのだ。ラジステル王の狡猾さに舌を巻きつつ、レギアは高々と足を組みながら微笑して見せた。
「そっちの言い分はわかった。が、まだ解せねぇことがある。それを依頼するのが何でオレなんだ? ……いや、違うな」
 漆黒の髪を揺らして首を振り、レギアはゆっくりと言葉を重ねた。
「何で、『オレたち』なんだ?」
「知れたことを」
 間髪いれずに答えてみせ、シアリースはちらりとルルに視線を向けた。黒髪に琥珀の目をした青年はゆるく微笑し、どこか悠然とした動作で一つ頷く。奇妙なやり取りにレギアが口を挟むより早く、シアリースは青灰色の瞳をレギアに戻すと、色の薄い唇を笑みの形に吊り上げた。
「討伐者はあくまではぐれの眷族や、定められた法に従わない刻印の保持者を狩る者だ。だが、お主たちは一般的に言うただの討伐者ではないだろう? 聖皇国の守護者たる四大守護騎士団のうち、十字架を司る騎士団団長レギア・ブライト。そして、かの『未明の街』エア・ラグナを生きたリーシャ・ラーグナー」
 目では捉えられないほどかすかに、鋼鉄の冷ややかさを保っていた紺碧の瞳が見開かれた。それほどに看過しがたいものだったのだ。シアリースが口にした『街』の名は。
「…………あんた、どこまで調べてやがるんだ?」
「心配せずとも表面的なことしか知らんよ。そう構えずとも良い。だが、そうだな。私はお主と、リーシャ・ラーグナーの『二つ名』を知っている。どこまで、という問いに対する答えはこれで十分だろう」
「……………」
 レギアは低く舌打ちの音を響かせた。そのままの勢いで席を立ち、どうした、と目線で問いかけてくるシアリースをまっすぐに見下ろす。ルルが柄を握る手に力を込め、鞘からわずかに鈍く輝く刃を引き出したが、それにも構わずにきっぱりと言い切ってのけた。
「交渉は決裂だ。生憎、オレは人様の過去まで調べ上げた挙句、対等ヅラして取引を持ちかけてくるような輩につき合うほど暇じゃねぇし、お人よしでもないもんでな」
「ほぅ。ただでは帰すつもりはない、と言っても?」
「そんなつもりもねぇくせに絡むなよ。別にここで一戦やらかしてもいいが、あんただって無傷ではすまねぇぜ? 仮にも一国の王様が、そんな無駄で危ない真似するはずがねぇだろうが。……まあお約束的展開から考えると、ここで大量の兵隊どもがわらわら出てきて口封じっつーとこだろうが、どうだ?」
 あんたはオレにも想像できる程度のことしかしねぇのか、と恐れもなく問いかけたレギアに、シアリースは初めて喉を鳴らして笑い声を立てた。楽しくてたまらない、というように。
 それを見やって刃を収め、隠し武器である中剣を腰の後ろに戻しながら、ルルもくすりと笑って無造作に肩をすくめた。
「そんな真似はしないよ。わが君の護衛についてきたのは私一人だからね。……それにしても残念。君たちならばきっと、わが君の意に沿って『男爵』に勝てると思ったのだけど」
「冗談。お国の騒動にオレたちを巻き込むんじゃねぇよ」
 短く吐き捨てると、レギアは何のためらいもなく踵を返し、扉に向かって歩き始めた。その背にかけられたシアリースの言葉は、交渉が決裂したとは思えないほど穏やかに、笑みさえ含んで響いていくものだった。
「残念だ。十字架の。できれば自主的に力を貸してほしかったのだがな」
 思わせぶりな言葉に眉を寄せたが、レギアは足を止めることも振り返ることもなく、ルルを押しのけるようにして食堂の扉を押し開けた。引き締まった長身がそこをくぐっていく瞬間、黒髪の青年は赤い唇にうっすらを笑みを刻み、ひとり言のような何気なさで口を開く。
「相棒の『天使』殿によろしく。十字架の君」
 ひそやかなささやきは、扉から吹き込んできた夜風にふわりとさらわれ、しっかりと響く前にほどけて消えた。



 ぴちゃり、と絡みつくような音を立てて、真っ黒な大地に赤い雫が滴った。どろりとした血溜まりが薄汚れた裏路地へ広がり、零れた雫を受けてかすかな波紋を描く。
 そこに投げ出された腕や足、空ろに宙を見上げた双眸、何かを叫ぼうとしたように開かれた口は、すべて夜目にも鮮やかな紅に染め上げられていた。濃い鉄の匂いを乗せた風が吹き、血を吸って重たげな黒衣をかすかに揺らしていったが、それは常のように軽くなびくことはない。何かの悪夢のような光景の中、ぴしゃり、という水音と共に細身の影が降り立った。
「――――弱いな」
 靴底で容赦なく臓物を踏みにじり、それでも足りないとばかりに屍の頭部を蹴りつけながら、リーシャは落ちかかってくる白金色の髪をかき上げた。光源は頼りない月の光のみだったが、夜目にも白い肌には返り血一つ飛んでいない。
「せっかく相手になってやったんだ。もう少し楽しませてみせろよ。ったく、あのカイリとかいうクソガキの方がよっぽど根性あったな」
 呆れたようにほっそりとした肩をすくめ、形の良い唇の笑みを閃かせる。もっとも、という楽しげな呟きは、眩暈がするような血の匂いの中でも清冽に響いた。
「『同調』したのはけっこう久しぶりだからな、軽い運動くらいにはなった」
 すでにリーシャ以外で命を留めている者はいなかったが、もしもこの場に生きている者がいたなら、あまりにも現実離れした光景に目を疑わずにはいられなかっただろう。
 そこにいたのは『天使』だった。まとった上着の背を突き破り、綺麗な曲線を描いて伸ばされた金属の骨格と、そこに貼られた薄い透明な羽根。鳥の翼とは違う、どこまでも機械的でありながら繊細で優美な羽根が、リーシャを守るようにしてその背に広がっていた。
 ただの作り物ではない証拠に、涼やかな音を奏でながらゆっくりと動く。飛び立とうとする鳥の羽ばたきのように。あるいは歓喜にふるえる天使の翼のように。
「悪かったな、レティ。こんな雑魚相手に同調して。……まあ、こんなヤツラ相手に時間をかけるのも面倒くさいしな」
 誰にともなく呟いて、リーシャは口元に手を添えながらくすくすと笑った。足元に広がるのは黒々とした血溜まりと、臓物をはみ出させて倒れ伏すいくつもの屍だというのに、透明な羽根を背負って佇む姿は『天使』としか表現しようがない。
 優しさや穏やかさとは無縁な鋭さを見せつけて、破壊天使はゆっくりと機械的な羽根を広げた。硝子の羽根がかすかに触れ合い、鈴が鳴るのにも似た清音を奏でていく。
「ああ、わかってる。とっとと帰ればいいんだろ? どうせだからこのまま『飛んで』いくか」
 目くらましを頼む、と虚空に向かってささやいたのと、リーシャの足先がふわりと地面から離れたのは、ほとんど同時だった。
 鳥のように空気を打って飛翔するのではなく、周囲の空間そのものに働きかけて重力を枷を振り解き、翼を負った細身の影は路地裏から夜空に滑り出した。今にも消えそうな月明かりを受けて、日の光を浴びた水面のように硝子の羽根が輝く。頬を撫でる風に小さく微笑みながら、暗がりに沈む路地裏にちらりと視線を投げかけ、リーシャは嘲るように唇の端を持ち上げた。
「…………『幸いなるかな、死せる者よ』」
 その呟きを聞く者は、リーシャとその守り手以外には一人もいなかった。






    


inserted by FC2 system