ナイトメア
 第四話 子守唄を、弔いの雨に 1


 


 霧雨がラジステルの街を包み込み始めたのは、頼りなかった三日月が西の空へと消えていく頃だった。
 水気を帯びていた風が気持ちよく乾き、過ごしやすい秋の訪れを告げる季節である。朝から雨が降るのはかなりめずらしいことで、ある者は慌てたように雨よけの外套を探し、ある者は店先の並べた品に布を被せながら、突然機嫌を損ねた空に棘のある視線を向けた。ようやく雨季が終わって雨具を片づけたばかりなのに、と。
 その空模様に負けず劣らず不機嫌な面持ちのまま、リーシャは寝台の上に座り込み、対面の壁にもたれかかった相棒に冷たい眼差しを向けていた。
「………お前、馬鹿じゃないのか? 馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、ここまで世に冠絶する歴史的馬鹿だったなんてさすがのおれも思わなかったぞ。まさか馬鹿の頂点でも目指してるのか? え?」
「そりゃあこっちの台詞だっつーの。短気で堪え性がなくて自己中心的で破壊的な人格破綻者だとは思ってたが、まさかここまで破滅的ボケだとは思わなかったぜ? オレの行動なんざ、お前のしでかしたことに比べれば眩暈がするほどかわいいもんだろうが」
 刃のような視線を受けて、レギアも負けじと端正な弧を描く眉を寄せた。その懐からピュイが顔を出し、にらみ合う二人を見比べてピィ、と小さな鳴き声を上げる。
 何とか空気を和ませようとしたのだろうが、リーシャの殺意さえこもった瞳で一瞥され、慌てたようにレギアの上着の中へもぐり込んだ。どうやらそこを避難場所に定めたようで、レギアが鬱陶しげにつついても出てくる気配はない。
 それを見やって低く舌打ちすると、リーシャは荒っぽい仕草で白金色の髪をかき上げた。大気中にこもった湿気にも関わらず、細い糸のようなそれは指の間からさらさらと流れ落ちていく。
「お前は馬鹿か。よりにもよってラジステル王と密会した上、貴族の暗殺を依頼された? しかも男爵階級に守護されてる高等参事官の? ………冗談じゃない、断ったからと言って、あの狸王が『はいそうですか』と諦めるはずがないだろうが。なに勝手に面倒ごとに巻き込まれてるんだ。死ね。責任とって速やかかつ発作的に死ね」
「ふざけんじゃねえよ。そういうお前こそ、路地裏でラジステル王の配下に襲われて皆殺しにしただぁ? すさまじく取り返しのつかないところまで突き進んだのはそっちだろうが。なにいけしゃあしゃあと『自分は無実です』みたいな顔してやがんだ」
「あ? 何を当然なことを言ってるんだ。向こうがおれを殺しにきたから、おれも懇切丁寧に誠意を込めて返り討ちにしてやったんだ」
「………やっぱテメェが死ね。なんだその『巻き込まれた被害者』から『大量猟奇殺人鬼』への軽やかな転身は。一度でいいから被害者のままでいてみやがれってんだよ」
 そのせいで今までどれだけ苦労したと思ってやがる、と憎々しげに呟き、レギアは寝台に腰かける相棒を見下ろした。
 今は厚手の上着を脱ぎ、白いシャツをまとっただけの姿は実に涼しげで、昨夜遅く、血の匂いをさせながら窓辺に降り立った天使と同一人物には見えない。嫌そうにすがめられた紺碧の瞳を見返すと、リーシャは細い顎に手を当てながら眉をひそめた。
「おれに被害者のままでいるような自虐趣味があるわけないだろうが。ちょっとは考えてものを言え、そして死ね。―――で、問題はラジステル王の今後の出方と、レイスバーグとかいう貴族だな。………ものすごく腹が立つことにこれからの展開が予想できるが」
 あまりにも軽く話題を変えた相棒を見やって、レギアは苛々と黒髪をかき上げた。
「さっきも言ったが、一応オレは断ったからな」
「うるさい黙れついでに死ねこの万年脳退化中人類。お前が……いや、このさい『おれたち』が、だな。その依頼を受けたかどうかが問題なんじゃない。お前がレナ・シアリースと接触した時点で、レイスバーグは『おれたち』を消す対象として認識しただろう、ってことが問題なんだ。依頼を受けたかどうかはお前にしかわからないしな」
 薄く紫がかった双眸をひんやりと細めて、リーシャは霧雨に煙る窓の外へ視線を向けた。
「依頼を断ったにしろ、おれたちはヤツにとっては憎き『討伐者』だってことだろう? それなら狩るのにためらいもないだろうさ。―――つまり、レナ・シアリースと会った時点でおれたちは巻き込まれたんだよ、否応なく、な」
「……なるほどな。どうりで会談中、わざとらしいくらい結界が薄っぺらかったわけだ。その男爵に『どうぞ盗み見してください』って主張してたわけか。とんだ狸親父だな」
「その狸親父にまんまと呼び出されたお前はさしずめ羽虫だな。ったく、相棒が脳の足りない馬鹿だとおれが苦労する。あまりの心労で倒れそうだ」
 わざとらしく天井を仰ぎ、リーシャはひどく儚い風情で溜息を吐いて見せた。女性であれば庇護欲を掻き立てられ、足元に跪いて慰めの言葉をかけずにはいられないだろう。だがもちろん、レギアがそんな思いに捕らわれるはずもない。
「で、そこまでわかっててラジステル王の刺客を皆殺しにしやがった意味は?」
 じとりと紺碧の瞳を据わらせるレギアに、リーシャはひどくあっさりとした動作で肩をすくめた。当然だろう、と言わんばかりに唇を笑みの形に吊り上げる。
「ウザったかったから」
「――――やっぱ死ねテメェ」
「お前が死ね」
 何よりの真情を込めて毒づいたところで、細身の青年はふっと長い睫毛を瞬かせた。窓の外に眼差しを固定したまま、どこか遠くを見るような表情を過ぎらせる。左目をまたぐ刻印が淡く発光し、天候のせいで薄暗い室内に漆黒の輝きを散らした。
「………何かあったらしいな」
「何だ、お前同調しっぱなしなわけか? ご苦労なこった」
「誰のせいだと思ってるんだ? ………そう遠くない、大通りの方だな。そこで死体が見つかったらしい。ちょっとした騒ぎになってる」
 『虚構の眷族』と同調することによって、街中に張り巡らせた感覚の網。そこに引っかかった言葉を選別し、意識化で意味のある文章に組み変え、望む情報だけを脳へ伝達していく。
 言葉にすれば簡単だが、たとえるなら風に舞う色違いの花びらの中、一つの色だけを選んで素早く掴み取っていくようなものだ。一朝一夕で出来る芸当ではない。それをこともなげにやってのけながら、リーシャはもたらされた情報の一つ一つに意識を傾け、優雅な動作で首を傾げた。
「人間の仕業じゃないな。死体の損傷が酷すぎるらしい。……しかも、従騎士が本能の任せて襲ったのとも違うみたいだ。多分、かなり高位の眷族が見せしめに………」
 そこでふいに言葉を切り、何の前触れもなく寝台から立ち上がった相棒に、レギアは軽く片方の眉を持ち上げた。
「どうした?」
 その問いには答えず、きつく眉を寄せながら投げ出された上着を手に取ると、リーシャは舌打ちの音を響かせて身を翻した。行くぞ、と短く呟いただけで、これからどこへ向かうのか、何があったのかを説明しようともしない。それに顔をしかめつつ、レギアももたれかかっていた壁から体を起こした。
「ほんっと、面倒くせぇヤツ」
 その呟きを聞きとがめたのか、レギアの懐からピュイが顔を出し、そんなこと言ってはだめだよ、と言わんばかりにピィと鳴き声を立てた。


 
 普段はにぎわっているはずの大通りは、奇妙なほどに張り詰めた緊張感に支配されていた。
 人々は不安げに顔を見合わせ、遊びに行きたい、とぐずる子供の手を引いて家の中へと入っていく。あるいは店先に立て札を置き、臨時休業と称して品物をしまいこむ。それを冷めた視線で見つめながら、リーシャとレギアは雨よけの外套も被らず大通りを走っていた。
 長く広い石畳の道が途切れると、優美な円を描くようにして広場が広がり、瓶を捧げ持った女神像の噴水が視界に飛び込んでくる。普段は大道芸人や吟遊詩人であふれ、人々が笑いさざめきながら行きかうはずのそこに、沈鬱な面持ちの男たちが幾重にも人垣を作っていた。
「……おい、どうした? なにがあった」
 レギアが手近な男の肩をたたく。ひょろりとした商人風の男は大袈裟な動作で振りかえり、立っているレギアに気づいて軽く目を見張ったが、今ここについたばかりの旅人だとでも思ったのだろう、痛ましげな表情を作りながら声を低めた。
「殺しだよ、殺し」
「………殺し?」
「そうそう。それも、あれはどう考えても人間のしわざじゃないね。そりゃあもんひどいもんさ」
 二人の会話を聞きつけたのか、前に立っていた赤ら顔の男が振り向いた。ぶるりと外套に包まれた体を震わせ、せわしなく自らの両腕をさすっている。
「ぜったいに『虚構の眷族』のしわざだよ、ありゃあ。人間にあんな真似ができるもんかい、恐ろしい」
「本当になぁ、端っこの方とはいえ、ここだって『盾』の公国だろう? 今までこんなことはなかったのに」
「それより大丈夫なのか? 『緋月の守護者』に連絡は……」
「………わかった。つまり、それだけひでー状態だったわけだな。おいリィ、一応」
 確認しとくのか、というレギアの問いかけを待たずに、今まで沈黙を守っていたリーシャが無言で足を踏み出した。何かを隠すように群れた人々を押しのけ、ずんずんと噴水の下へ歩み寄っていく。
 おい、と低く舌打ちの音を響かせながら、レギアも男たちに片手を上げて後に続いた。不自然なほど男たちが集まっているとはいえ、距離にすればたった数歩分だ。立ち止まった相棒のすぐ後ろにつき、雨に濡れる女神像を何とはなしに見上げたところで、レギアは紺碧の瞳をすっと細めた。
 瓶を捧げ持つ女神の手から腕、そして真っ白な石で作られた衣服の裾に、どす黒くさえ見える紅の色彩がこびりついていた。女神の喉部分には何かを突き立てたような痕があり、流れ落ちる雨水にまじって赤い液体が滴って、澄んでいるはずのそれを濁った色彩に染め変えている。
 それはひどく冒涜的な光景だった。汚れのない聖母が罪人の手にかかり、その身を紅の血に染めて激しく嘆いているように。あるいは喉をかき切られた女神が狂おしく身をよじり、天へと慟哭の絶叫を上げているように。
「…………なるほど。確かにひでーな」
 噴水のすぐ下に麻布が敷かれ、そこから手まみれの手がごろりと投げ出されているのに気づき、紺碧の双眸がますます冷ややかな光を湛えてすがめられた。
 恐らくは鋭い杭か何かで女神像に打ちつけられ、広場の中心で磔状態になっていたこの屍を、集まった男たちが下におろして布を被せたのだろう。名も知らぬ遺体への憐れみか、それとも損傷の程度が直視に耐えないほどひどかったのか。
 多分両方だろうな、と胸中に呟いたレギアの視線の先で、リーシャはその場に膝を折って座り込むと、遺体にかけられた布を無造作にまくり上げた。
 驚愕の視線が集中する中、紫がかった銀の双眸がかすかに見開かれる。
「…………」
 頭部の半分が無残に崩れ、喉にばっくりと裂傷が走り、片腕と片足がつけ根から消失しているというひどい状態だったが、それでもその表情にはえもいわれぬ愛嬌があった。
 今は見開かれた平凡な黒い瞳に、血で固まっている黒い髪。楽器を奏でていた長い指。リュネインよりもリーヴの方が好きだね、と言って嬉しそうに笑っていた口元。そのすべてを赤黒く染め上げ、降りしきる霧雨に裂けた衣服を濡らしているのは、この街の酒場で弦楽器を奏でていた楽士の男だった。
「――………ウィグド」
 その呟きをさらうようにして、笑い声にも似た風が吹きすぎていった。






    


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