ナイトメア
 第五話 賢者の予言 3


 


 風に乱された髪を押さえ、リーシャは紫がかった銀の瞳で夜空を見上げた。
 闇の中に無数の星がまたたき、ラジステルの街並みを美しく彩っているが、空の晴れ具合に比べて吹いていく風は乱暴だった。今も植木鉢の花が大きくしなり、薄紅色の花びらを無残にも散らそうとしている。それに何の感情もふくまれていない視線を向け、ごくわずかに両目を細めると、リーシャは広場の中心にある女神像へと眼差しを転じた。
 昨夜の雨が洗い流してくれたのか、瓶を持った女神は純白の肌を惜しげもなく見せつけ、その秀麗な顔で深い夜空を仰いでいた。喉の部分に何かを突き立てた痕がなければ、誰もそこに『男の死体が打ちつけられていた』とは思わないだろう。瓶から流れ出る水はどこまでも澄みわたり、星のきらめきを受けて砕け散った宝石を思わせた。
「……で、リィ。妙に自信たっぷりにここまで歩いて来やがったが、敵さんは本当にここに来るのか?」
「おれが知るか。ちょっとは自分で考えろ、ただでさえ少ない脳みその皺が全滅するぞ?」
「お前がさも当然のような顔して『広場に向かうぞ』ってほざきやがったんだろうが。なに軽やかに責任を投げ捨てようとしてやがんだコラ」
「なんでおれがお前の分の責任も負わなきゃならないのか、おれが納得できるように五文字以内で説明してみろ。そしてそもそも順序が逆だ。おれたちを殺したがってるのはあっちなんだからな、『結界』から出てきたのをこれ幸いと襲いに来るだろうよ」
 こっちが奴らを探してやる必要がどこにある、という相棒の刺々しい言葉に、レギアは非常に嫌そうな表情で肩をすくめた。
 尖った風が音を立てて吹き抜け、二人のまとう黒の上着をバタバタとはためかせた。街の服屋で購入した薄手のものではなく、一日かけて乾かしたグランデュエルからの支給品だ。似通ったデザインの服だが、リーシャの上着には肩と胸元に剣を模した銀の飾りが、レギアのそれには片腕と襟に十字架のしるしがつけられ、それぞれの印象をまったく異なったものに変えている。グランデュエル側の配慮というより、「こいつとお揃いを着るくらいならお前らを殺すぞ」という二人の直訴の結果である。
 着慣れた上着の裾を軽くさばき、リーシャは胸元で揺れる銀の短剣に指を這わせた。レギアも大剣の柄に軽く手を触れ、もう一方の手で肩に乗っている白いねずみを無造作に弾く。
「どうでもいいけどな、ピュイ。どうせオレらが戦い始めたら逃げんだろ、お前。だったら今のうちにどっか行っとけよ、はっきり言って邪魔だ」
「まったくだな。尻尾巻いて逃げ出すなら今のうちだぞ、くそねずみ?」
 紺碧と紫銀の瞳で一瞥され、ねずみの姿をした『虚構の眷属』は抗議するように鳴き声を上げた。二人を見捨てて逃げるわけにはいかない、と言わんばかりに毛を逆立てたピュイに、白金の髪をした青年がひんやりと笑う。
「ねずみのくせにいい度胸じゃないか。っていうかな、毎回毎回戦いのたびにどこかに消えて帰ってこないのはどこのどいつだ? え?」
「ま、ここにいてぇっつーなら別に止めねぇけどな。……っと」
 ピュイの羽根を指先でつまみ、さも当然のように後方へ投げ捨てると、レギアは大剣の柄を握りなおしながら目を細めた。
「どっちにしろ手遅れだな」
「ああ。予想通りのご登場お疲れ様、ってところだ」
 軽快な音と共に大剣『シェルダ』が抜き放たれ、暗がりの中に冷ややかな輝きを刻みつけた。その横でリーシャが短剣をつかみ、細い鎖を手のひらの中に落とし込む。
 臨戦態勢を取った二人の前方、傷ついた女神が水を生み出し続ける噴水の横に、まるで薄墨を滲ませたような淡い『染み』が出現した。それは瞬く間にぐにゃりと歪み、黒々とした濃さを増し、やがて闇色の影をまとった長躯を形作っていく。見覚えのある姿が空中に現れ、紅の瞳で周囲を睥睨し、音もなく地面に降り立つまで数秒もかからなかった。
 レギアが口元に鋭い笑みを閃かせる。
「……しかも二人そろってのご登場、ってか?」
 前日の邂逅とは異なり、今回姿を現したのは『男爵』一人ではなかった。綺麗に整えられた金髪に碧の瞳、指にはめられたいくつもの指輪、複雑な形に紐を編み上げたブーツなど、いかにも貴族らしい青年が男爵に続いて出現する。甘く整った面差しの美青年だったが、周囲を見回す碧の瞳はどこか爬虫類のそれを思わせた。
「――――はじめまして」
 武器を構えた二人に視線を投げ、青年は嫌味なほど丁寧な動作で一礼してみせた。男爵が恭しく背後に下がり、腰の得物に手をやることで二人を牽制する。青年の行動をさまたげることは許さない、というように。
 それだけで青年の正体に思い至り、レギアは露骨に顔をしかめて『シェルダ』を構えなおした。
「おい、リィ。こいつが例の御大か?」
「この状況でそれ以外が出てきてたまるか。まず間違いなく例の、だろ」
 相棒に負けず劣らずの渋面を作り、リーシャは紫銀の瞳で金髪の青年を見やった。二人の会話が届いたのか、青年はさもおかしそうに両手を広げてみせる。
 風が渦を巻くようにして吹きすぎ、艶やかな金髪を宙に散らしていった。
「ご想像通り、私がラジステルの高等参事官にして『男爵』ヴェルガーの主、レヴィン・エル・レイスバーグだ。お会いできて光栄だよ、グランデュエルの討伐者さん」
 まるで子供のように明るく笑い、青年はわざとらしいほど優雅な仕草で首を傾げた。
「いや、ここはリーシャ・ラーグナー君にレギア・ブライト君、と呼んだ方がいいかな? ……それとも、ここは君たちの二つ名に敬意を表して『屍天使』に『逆十字』と呼ぼうか?」
「……うわやっべー、登場後十秒にしてここまでオレの神経を逆撫でしやがったのはリィ以来の快挙だ、ってくらい普通にウゼェ」
 相棒の呟きを完膚なきまでに黙殺し、リーシャはことさら冷たい表情で唇の端を持ち上げた。
「名乗ってもいない相手に名前を呼ばれるのはかなり不快だな。貴族ならもう少し礼儀作法に気をつけた方がいいんじゃないか? いつか夜道で刺されるぞ、後ろから」
「ご忠告ありがとう。『銀の屍天使』」
 何の痛痒も感じていない表情でくすくすと笑い、レヴィンは両手を広げたまま歌うように言葉を続けた。
「そして『黒の逆十字』よ。ラジステルの高等参事官として、そして同じ『刻印の保持者』として、私ははるばるやって来た君たちを心から歓迎する。―――ヴィー」
 ちらりと見返ったレヴィンに頷いてみせ、男爵ヴェルガーは無言で二人の前に進み出た。とたんに空気が密度を増し、風さえも怯えたようにその強さをやわらげ始める。
「わが王、レナ・リアリース陛下の御意だからね。さあヴィー、全力で彼らをもてなしてあげよう。手を抜くのは失礼にあたるというものだ」
 ヴェルガーに応えて一歩踏み出しかけ、レギアは何かに気づいたように紺碧の瞳を細めた。ヴェルガーとレヴィンの様子に変わったところはなかったが、周囲の空間が少しずつ歪み出し、吹き抜ける風が奇妙に間延びしたものになっていく。
「とはいっても、『屍天使』と『逆十字』相手にここで戦うのはまずいからね。もっとやりやすい場所に移動しよう。別に異存はないだろう?」
「そうだな。おれたちはどこでも構わないが、お前は誰かに見られたら身の破滅だ」
 リーシャの美貌を凄絶な微笑が彩り、左目をまたぐように描かれた刻印が光を放った。
「空間を『飛ぶ』なら早くしろ。こっちはお前と違って忙しいんだ。しゃべりたがりなのか頭が弱いのか知らないが、そんなに口上を聞いてもらいたいんならそこの下僕に構ってもらうんだな。感涙にむせびながら靴の裏でも舐めてくれるだろうよ。もちろん地獄で」
 レギアが視線の動きだけで天を仰いだ。彼の相棒ははた迷惑な特技を多く持っているが、その最たるものが『相手を挑発して怒らせる鋭利な毒舌』だ。戦う前から事態を悪化させてんじゃねぇよ、というレギアの呟きに、リーシャは天上に住まう神々もかくやという笑みで答えてみせる。そのすぐ傍を漆黒の旋風が駆け抜けた。
「主への愚弄は許さぬ。その命を持って贖うか、屍の天使」
 目にも止まらぬ速度で得物を突き出し、ヴェルガーが感情の見えない双眸を冷たくすがめた。頬をかすめた風に淡く笑みを浮かべ、美貌の青年はしゃらりと鎖をもてあそぶ。
「黙れ、下僕が」
「……ヴィー!!」
 低く押し殺した主の声び、ヴェルガーは横薙ぎに振るおうとしていた武器を宙で止めた。同時に割って入ろうとしたレギアも大剣を下げ、平然とたたずんでいる相棒に呆れの視線を向ける。
「挑発なら一人でいる時にしろよ、止めねぇから。むしろ死ね。一人で死ね」
「お前も黙れ、ついでに死ね」
「……君たちは」
 レヴィンが広げていた両手をゆっくりと下ろした。その顔は相変わらず笑みを湛えていたが、碧の双眸は溶鉱炉のような感情がぐらぐらと渦を巻いている。
 ふいに時間が間延びするような感覚が強くなり、周囲に満ちる暗がりが肉眼で捉えられるほど濃くなった。それが一瞬ごとに濃淡を変え、めまぐるしく回転し、両手を広げて広場に立っている者たちを押し包む。レヴィンとヴェルガーが出現した時のように。
「君たちは実におもしろいねぇ。こういう馬鹿はすごく好きだよ、なんていったって滅多にいないから」
「お前みたいな変態に好かれてもまったく嬉しくないな」
「同感」
 どこまでも可愛げのない返答を飲み込むようにして、空間がパリン、という澄んだ音と共に砕け散った。そこへ金属の羽根を広げたピュイが飛び込み、間一髪のところでリーシャの肩にしがみつく。リーシャがわずかに眉を寄せ、ピュイの首根っこをつかんで放り出すより一瞬早く、ラジステルの広場に出現した『歪み』は弾けて消えた。




 人の気配が消えたのを確認し、ルルは舞うような動きで噴水の傍に降り立った。そのすぐ横にシアリースが現れ、青灰色の瞳で周囲の様子を確認する。
「行った、か」
「ここまでは我々の計画通りですね、わが君。……我々の、と言っては少し語弊があるかもしれませんが」
 実に楽しげな様子でくすくすと笑い、黒髪の青年は背後にたたずむシアリースに眼差しを向けた。それを受けたシアリースが眉を寄せ、口を開こうとするを片手でさえぎると、ルルは女神像の建っている噴水の縁に腰を下ろす。琥珀に近い薄茶色の瞳がやんわりと笑った。
「わが君。劇というものは最後まで演じてこその劇。配役たちが定められた舞台に上がり、血塗られた劇を始めようとしている時に、どうして観客であり脚本家である我々がそれを壊せましょう。……無粋な真似はしない方がおもしろいと思いませんか?」
「芝居……か。お前は、それを望むと?」
「ええ、わが君。もちろん、現実は芝居のように美しくはないし、すべてが予定調和のうちに終わる安心感とは無縁のもの。だからこそ期待が持てるというものでしょう? エア・ラグナを生きた屍天使と、グランデュエルが誇る十字架の騎士団長。背徳の天使と異端の騎士が、国家の裏切り者相手にどのような戦いを見せてくれるか」
 ルルの言葉は吟遊詩人が綴る歌に似ていた。優しく、柔らかく、淀みなく響きわたり、聞く者の意識を捕らえながら冷たい夜気を揺らしていく。
「その結末が楽しみで仕方ないと。そう思うのは傲慢なことでしょうか、わが君?」
 まるで試すような言葉を受け、シアリースは無言のままかぶりを振った。それを見やってルルは笑う。
 リーシャ・ラーグナーとレギア・ブライト。ルルがこの二人に対して抱いている期待、好意、そして憐憫にも似た慈しみは意外なほど大きなものだった。誰に言っても理解されないだろうが、あの美しくも強い天使と騎士ならばきっと、ラジステルが秘めている『望み』を果たすために力を尽くしてくれるだろうと。根拠など何もないまま、ルルは確信めいた強さで信じていた。
「そう、賢者は予言した。いずれ滅びが来ることを。『虚構』が『真実』を飲み込み、『歪み』が『均衡』を崩し、かの存在が見た『悪夢』の世界に終止符を打つことを。……でも、それを受け入れる義務は私たちにはない」
 強さを取り戻した風が吹きぬけ、黒髪に巻きつけられた水晶の飾りを揺らした。シャリン、という澄んだ音が響きわたり、朗々としたルルの声音に清涼な彩りを添える。
「私たちは決して負けない。たとえすべてが予定調和で、賢者の予言によってしるされた覆せぬ未来だったとしても。そのためなら」
 細く白い手が夜空に差し伸べられた。まるで星々をその手につかもうとする幼子のように。
「私は何だって利用し、使ってみせよう。月と闇も。空虚なる王も。至高の位にある者たちさえも。……そうでしょう? ねえ、わが君。ラジステルの王、レナ・シアリースさま」
 琥珀に煌く瞳がシアリースを見やり、いたずらっぽい仕草で細められた。つかみどころのない笑みを浮かべた『護衛』に目を向け、一度だけ青灰色の双眸で夜空を仰ぐと、ラジステルの『王』は口をつぐんだまま大きく頷いてみせる。
 その動作と表情は敬虔で、どこか恭しく映るものだった。






    


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