3 拾い物


 


 どこかひややかな眼差しで、カイゼルは目の前に立った少年を眺めやった。
 顔立ちは悪くない。光に当たると金色に透ける薄茶色の髪に、青とも緑ともつかない碧の瞳、陶磁器のような滑らかな肌の、繊細に整った面差しをしている少年だった。細く真っ直ぐな薄茶の髪は、最も長い部分でも肩につく程度の長さしかない。身分の高い者は髪を伸ばす習慣のあるエルカベルでは、短い髪は平民や奴隷階級の証だったが、身なりのよさや立ち振る舞いから察するに、とてもではないが卑しい身分の者だとは思えなかった。
 白い襟のついた装束に紺色の上着も、エルカベル帝国では見たこともないような意匠のものだった。一々子犬のように怯える様はやや鬱陶しかったが、話し方を見ていると明敏な頭脳の持ち主であることがわかる。何ともわかりにくい雰囲気の持ち主だった。シオン、と名乗った華奢な少年は。
 そして不思議と、興味が引かれた。
「俺はカイゼル・ジェスティ・ライザード。エルカベル帝国騎士団長の大将軍だ」
 名乗ってみせたのは、シオンの身分に対する探りも兼ねていた。帝国軍の総称でもあるエルカベル騎士団団長の名は、人類唯一の統一国家たる帝国の皇帝に次ぐほどの知名度を誇る。カイゼルの名を知らないのは、辺境すぎて帝国の支配が届かない未開の地の住人か、生まれてから一度も教育を受けたことのない最下層の奴隷だけだった。そのどちらにも見えないシオンがどういった反応を示すのか、カイゼルは自身が興味を引かれたことを自覚しながら観察していた。
 普通の平民のようにすぐさま跪くのか、それとも貴族の子弟のようにあからさまな媚を売ってくるのか、全くわからないという顔して沈黙するのか。
 だがシオンの反応は、そのどれにも当てはまらなかった。
「……皇帝?」
 帝国で最も美しいシティン湖のような瞳に驚愕を浮かべ、思いもかけない言葉を呟いたのである。
「……あぁ?」
 カイゼルはぐっと強く眉を寄せた。皇帝の名を知らない者など、このシェラルフィールドと呼ばれる世界には存在しない。それがどんな未開の土地であれ、貧しい奴隷であれ、全人類の支配者の名は本能にも近しい位置で知っているものだった。シェラルフィールドの住人ならば誰でもその身に宿す『魔力』が、人類最高にして最大の魔力を持つ皇帝の名を呪文のように刻みつけ、その身を縛る忠誠の鎖とするのだから。
 そうだというのに、シオンはカイゼルに向かって呟いたのである。皇帝、と。
 それも、カイゼルのことを皇帝だと思った、というのとは少し違う印象があった。そこには畏怖や、敬虔な響きというものがこめられていない。ただカイゼルの名を聞き、そこに込められた意味を呟いてしまっただけ、とでも言えば最も近いかもしれなかった。
 訝しげに顔をしかめたカイゼルを見やり、シオンは我に返ったようにはっと体を強張らせた。見ている方が哀れになるほど、シオンはカイゼルに対して小動物のような怯えを見せている。セスティアルなどは気遣わしげな眼差しで見ているが、カイゼルは少年の怯えになど構ってやるつもりは皆無だった。
「頭は大丈夫か、お前? まさか皇帝陛下の名も知らないとぬかすつもりか」
 陛下、という敬称を口にした時の空々しい響きを、この場で感じ取ることができたのはセスティアルだけだろう。それが至上の使命であるように背後に並び、呼吸音さえ殺して上司の行動をさまたげまいとしている騎士たちは、上司が全能たる皇帝に欠片も敬意を抱いていない、などということは想像もしないはずだ。
 カイゼルの低い声を間近で向けられたシオンは、反射的に目を瞑りながら首をすくめた。
「……ちっ、違います! 申し訳ありません、あの、ただ……」
 シオンは怯えたように目を伏せながら、懸命に言葉を探しているようだった。青ざめた顔に、それでもどうにかしてこの場を切り抜けようとして考えを巡らせている、強い意志が垣間見える。繊弱に見えるが、馬鹿ではない。
 それはカイゼルにとって不快ではない認識だった。
「ただ、何だ?」
「わからない、のです。本当に、気がついたらここに攫われていて、帝国のことも、皇帝陛下の名前も……」
 申し訳ありません、という声は小さく、カイゼルの耳にようやく届くほどのか細いものだった。だが確かに聞き取って、カイゼルはすっと深青の瞳を細めた。
「記憶を失っている、と言うのか?」
「いえ、自分のことは覚えています。ただ、ここがどこなのか、どういった場所なのか、それが全く……わからないのです」
 嘘を言っているようには見えなかった。そしてこの場合、シオンの態度は賢いと言える。下手な嘘をついたところで、カイゼルの力を持ってすればそれを見破ることなど簡単なことだ。知らないことは知らないとはっきり述べておけば、後で嘘が発覚した際に罪に問われることはない。
 ふん、と軽く眉を上げて、カイゼルは再びシオンの額へ手を伸ばした。剣を扱うカイゼルの手は無骨で、大きい。シオンの、女を思わせる小さな頭などすっぽりと収まってしまった。
 そのまま伏せた顔を上げさせて、湖のような瞳を除きこみながら小さく笑った。
「まあいい。返る場所がないなら、とりあえず帝都へ来い。こんなことろをうろうろしていれば遅かれ少なかれ、さっきの手合いに捕まって娯楽用の人間として売り飛ばされるぞ」
 シオンの瞳にさっと恐怖が走った。実に素直な反応である。どうやら誰かに飼われていた類でもないらしい、とカイゼルは判断した。この世間知らずな様子から、どこぞの貴族に囲われていた色小姓である、という可能性も考えていたのだ。
 無造作にシオンの頭を離すと、黙ってシオンと上司のやり取りと伺っていた美貌の魔術師に向き直った。
「セス、野盗どもの馬で使えそうなのは残ってるか」
「はい。鞍と鐙を置けば充分使えるかと思いますが……帝都へ連れて帰るのですか?」
「違うな。持って帰るんだよ」
 さらりと非人道的なことを言って、カイゼルはシオンに一瞥も向けずに背後の騎士たちに指示を出した。それを受けた騎士たちは迅速に動き、すでになだめて大人しくさせていた数頭の馬から一頭を選ぶと、手慣れた動作で予備の鞍や鐙を置いていく。その他の馬は手綱を引いて連れて行く手はずになっていた。
 横目でその作業を見やりながら、カイゼルはセスティアルに深青の瞳を向けた。浮かんだ微笑は心なしか楽しげだ。
「セス。お前が言った楽観的予言は、アレか?」
「……わかりません、正確には。ただ」
 慎重に返答しつつも、セスティアルは不安げにこちらを伺っている少年を見遣った。気づかれない程度の視線の強さで。うっすらと青みがかった銀の双眸が、深い光を宿して輝いたようだった。
「とても不思議な感覚があります。靄がかかったようにはっきりとはしませんが、嫌なものではありません」
 セスティアルの答えに、カイゼルは不敵な微笑を口元に閃かせた。充分だ、と。
「くだらん仕事に駆り出されたと思ったが、妙なものは拾えたな。面白い」
 低く喉を鳴らして笑うカイゼルは、何故自分があの少年を連れ帰ろうとしているのか、正確なところはわかっていなかった。
 ただ興味を引かれたのは確かだった。
 詳しいことは道中にでも、あるいは屋敷に帰った後にでも聞けばいいのだ。それによって自分に不利益が生じるようならば放り出せばいい。
 今はまだ、その程度の興味でしかなかったけれど。




 紫苑は心から困惑して、差し出された馬の手綱を見つめた。
「どうしました、シオン?」
 優しく微笑んでいるのは、長い黒髪を背に流した美貌の青年だった。この人物に対する紫苑の印象は限りなく良い。危ないところを直接的に助けてもらったためもあるし、人当たりの良さが安心感に結びつくためもあるだろう。
 だが、差し出された手綱を受け取ることはできなかった。
「申し訳ありません……あの」
「ああ、セスティアルと申します。レイター・セスティアル・フィアラート。どうぞお見知りおきを。シオン・ミズセ?」
 やはり風の音色のように柔らかい声音に、紫苑は急いで、だが女優である母親譲りの優雅さは失わずに頭を下げた。
「……はい、よろしくお願いいたします。セスティアル……様」
 彼のカイゼルとの会話から、セスティアルが高い身分であることは想像がつく。だからやや躊躇った末に『様』をつけたのだが、どうやら間違いではなかったようだ。セスティアルはふわりと微笑んでええ、と頷いてくれた。
 それでも、紫苑はつられて微笑することもできず、長い睫毛に縁取られた瞳を瞬かせた。
 どうやら自分はこの人たちに保護されたらしい、ということはわかった。それは非常に望ましいことだ。こんな右も左もわからない場所で、一人で放り出されたりしたらどうなるかわかったものではない。それこそ売り飛ばされるようなことになりかねなかった。
 さらに、漏れ聞こえてきた会話の断片から、彼らが『帝国』の『騎士団』の騎士たちであるということもわかった。その時点で、すでに紫苑の脳は先ほどから必死になって打ち消している言葉に乗っ取られそうになっている。
 そして今最大の問題は、移動手段が馬であるらしい、ということだった。
 紫苑は普通の高校生である。母のことやその成績、中学まで劇団に所属していたことなどを知っている周囲からは、「どこが普通だ」と言われ続けているが、それでも彼に乗馬をたしなむような趣味はない。彼の親友である、生徒会に所属している兄弟たちならば可能かもしれないが。
「シオン?」
 困っている紫苑の様子で何かに気づいたのか、セスティアルはかすかに首をかしげた。
「基本的な質問になりますけど……馬、乗れますか?」
「乗れません」
 そうとしか答えようがなかった。いたたまれずに目を伏せる紫苑に、セスティアルのものではありえない低い声が投げかけられた。馬の準備ができたことを確認し終え、紫苑に再び歩み寄ってきたカイゼルである。
「馬に乗れない、だと?」
「……はい」
「まったくか?」
「……はい」
 申し訳ありません、と蚊の鳴くような声で答えると、カイゼルはありえない言葉を聞いた、というように顔をしかめた。普通は奴隷とて乗馬を学ぶものだ。馬に乗れなければほとんど物の役にも立たないのだから。
「何なんだ、お前は? 皇帝陛下の名もわからない、帝国についても知らない、挙句の果てには馬に乗れない? 本当にシェラルフィールドの住人か、お前」
 その台詞は怒ったものというより、呆れが色濃く滲んだものだった。だが紫苑はびくりと体を震わせ、全身で萎縮してしまう。本当にこの世界の住人か、という言葉に、どくんと心臓が波立った。
「……あ、あの」
「一々びくつくな、鬱陶しい」
 不機嫌そうな表情を浮かべながら、カイゼルは紫苑に向かって腕を伸ばした。反射的に体をすくめた瞬間、問答無用でブレザーの襟首を掴まれ、荷物か猫の子でも放り出すように馬の鞍上に乗せられる。騎士たちが用意した野盗の馬ではなく、夜の闇よりなお深く艶めいた漆黒の馬、カイゼルの馬の上に。紫苑だけでなく、セスティアルや騎士たちさえも大きく瞳を見開いた。
 それらの全てを平然として無視してのけると、カイゼルは鐙に足をかけることさえなくひらりとその後ろへ飛び乗った。
「……え?」
「体を伏せてろ、前が見にくいだろうが」
「あ、はい。って、え!?」
 ひたすら混乱しながらも素直に身を伏せた紫苑に、カイゼルは満足げに小さく笑った。鬱陶しいのは事実だが、微妙に面白いのも事実である。こういう人間を見ると、完膚なきまでに苛め抜きたくなるのだ、昔から。
 そのまま呆然とする部下たちに向かい、よく通る低い声で告げた。
「山下の街コーラリアを襲っていた野盗の掃討は完了した。いったん総督の屋敷に戻った後、帝都エリダに帰還するぞ、とっとと動け!」
 たったそれでけで、彼らは雷に打たれたように急いで動き出した。ほんのかすかに嫉妬の目で見られたような気がしたのは、紫苑の気のせいだったかもしれないが。
「おい、シオン」
 突然背後から低い声がして、紫苑は危うく叫びを上げるところだった。だが意志の力を総動員して何とか堪え、そろそろ視線を持ち上げる。近くで見下ろしてくる深青の瞳に、再び心臓が大きく飛び跳ねた。
「……はい」
「それくらいはわかってるだろうが、たてがみにでも掴まってろ。落ちたら見捨てるぞ」
「はい……カイゼル、様」
 どう呼べばいいのかかなり迷った末に、紫苑は結局名前を口にした。ドイツ語が通じる場所ではないようで、ここでは皇帝の意味する言葉ではないようだ。それでも、王者の風格をまとわせたその青年に何より似合う響きだった。
 カイゼルの方は何と呼ばれようとどうでもいいのか、紫苑の返答にそっけなく頷いただけで馬の腹を蹴った。とたんに漆黒の馬は長い足を躍らせ、足場の悪さをものともせずに走り出した。
(うわっ……)
 がくんと体が上下に揺さぶられ、紫苑は必死になって漆黒のたてがみを握り締めた。冗談ではなく、この青年なら落馬しても置き去りにして行きかねない。それ以前に、この速度で落馬して生きていられる自信もなかった。
 すさまじい速度で流れていく周囲の景色も、本来なら得難い経験だと言えるだろうが、紫苑にそれを楽しむような余裕など皆無だった。
 ただ手綱を握っている力強い腕が、今のところ自分の命運をも握っているのだ、ということだけはしっかりとわかっていた。






    



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