序 支配者の見る夢


 


 ひどく懐かしい夢を見た気がして、ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアは薄い唇を笑みの形につり上げた。
 そのままゆっくりと目を開けば、硝子張りの窓から差し込む朝日と、馬鹿馬鹿しいほど高く作られた天井と、見慣れた調度品の数々が視界に飛び込んでくる。さらりとした感触のシーツに手をつき、緩慢な動作で寝台の上に体を起こしながら、ヴァルロは手近な卓上に置かれている鈴に手を伸ばした。
 手のひらに収まるほどの銀の鈴は、高名な魔術師によって作られた発信装置の一種だった。ほんの一、二回振るだけで、その音は部屋をくるむ防音の結界を通り、近くに詰めている侍従たちにヴァルロの呼び出しを伝えてのける。リィンという音が響いた数秒後、耳になじんだ足音とノックが聞こえ、ヴァルロは寝台から下りながら短く入室の許可を出した。
「失礼いたします、陛下」
 優雅な動作で扉を押し開け、侍従のシエラ・イリス・ファランディエラがどこまでも丁寧に一礼した。開け放たれた扉から明かりが差し込み、どこか作り物めいたシエラの容貌を白々と浮かび上がらせる。
 性別を持たない宦官(かんがん)であるシエラは、男性らしくも女性らしくもない挙措と、ある種の冷たさを感じさせる端麗な造作の持ち主だった。本来は後宮で女性の世話をする役職だが、現在の帝国には皇妃と呼ばれるべき人間が存在していない。皇太子時代に迎えた妃が命を落として以来、ヴァルロは一夜の相手以外を求めようとせず、結果として華やかなはずの後宮は寂れるがままになっていた。
 宦官も本来の仕事を失ったが、シエラはその優れた事務能力を買われ、八年前からヴァルロの傍近くに仕えることを許されていた。たった一人で主君の自室に足を運び、着替えや支度を手伝う様子からも重用のほどが伺える。手にしていた銀の瓶を卓上に置き、恭しい身のこなしで一歩下がると、シエラは主君に向かって再び頭を下げてみせた。
「本日はよくお眠りになられましたでしょうか、陛下」
「そうだな。久しぶりに夢を見た」
 無骨な手で瓶に張られた水をすくい、ヴァルロは喉の奥で低く笑い声を立てた。冷たい水の感触に目を細め、まとわりつく眠気をはらうために手早く顔を洗う。
 パシャリ、というわずかな水音が朝の静寂を揺らしていった。
「そう、懐かしくもいとおしいリヴィウスの夢だ。最近は夢にすら出てきてくれなかったというのに、どうやら今になって気まぐれを起こしたらしい」
「リヴィウス様……弟君の夢、でございますか」
 シエラの声がためらうように揺れた。困惑したようにたたずむ侍従を見やり、ヴァルロは水の滴る顔をぬぐいながら鷹揚に頷く。
「そうだ。……そういえば、そろそろあやつが病で死んでから十五年経つな。何か式典でも催せという、亡きリヴィウスの催促やもしれぬ」
「……」
「何にせよ、家族の夢を見るというのは心地よいものだな。そうは思わぬか、シエラ?」
「……は」
 慎重な仕草で顎を引きつつ、シエラは抱えていた布をヴァルロに差し出し、使い終わった銀の瓶にほっそりとした手を伸ばした。その指先に淡い光がともり、中に満たされていた水がそれに吸い込まれるようにして消える。
「リヴィウス殿下と陛下は、まことに仲のよろしいご兄弟でございました。それが夢であれ、お会いできたのなら喜ばしいことでございましょう」
 空になった瓶を取り上げ、壁際に置かれた棚の上に移動させながら、シエラはヴァルロの顔色を伺うような口調で言葉を続けた。
 リヴィウス・レフィ・ジス・レヴァーテニアは、ヴァルロの一つ下の弟であり、先代の皇妃が命と引き換えに生んだ皇子であり、十五年前に不治の病で命を散らした青年だった。皇太子として冊立される以前から武芸に秀で、親政という形で戦に参加していたヴァルロに対し、リヴィウスは政治を学ぶことに熱心で、当時の宰相でさえ舌を巻くほどの手腕の持ち主だったという。
 廷臣たちがヴァルロ派とリヴィウス派にわかれ、玉座をめぐって争うほど対照的な二人だったが、そんな周囲の思惑とは裏腹に、本人たちは最後まで仲のよい兄弟という関係を貫き通した。それが真実なのか虚構なのか、実の親である皇帝にさえ悟らせないままに。
「確かにな、シエラ」
「はい」
「予とリヴィウスは仲のよい兄弟だった。……だから、予とリヴィウスは賭けをしたのだよ」
「賭け……と、仰いますと?」
 ヴァルロの着替えを手伝いながら、美貌の侍従は困惑の表情で長い睫毛を瞬かせた。それを見やってヴァルロは笑う。
「賭けは賭けだ。この帝国の未来を賭けた、未だに決着のつかない馬鹿げた、な」
「……」
 シエラは言葉の続きを待つように沈黙したが、ヴァルロにそれ以上を語るつもりはないらしく、広々とした室内にごくわずかな静寂が落ちた。
 窓から差し込む朝日が明度を増し、ヴァルロのくすんだ金髪と、シエラの清流を思わせる銀髪を淡く輝かせる。シュルリという衣擦れの音だけが響く中、シエラが意を決したように顔を上げ、陛下、と控えめな口調で呼びかけた。
「何だ?」
「……は。本日の予定をお話してもよろしいでしょうか」
「無論だ。昨夜はどうだ? 何か変わったことでもあったか」
 いつもと変わらない主君の答えを受け、シエラは冷たく整った面差しに安堵の色を滲ませた。
「陛下がお休みになりました後、コーラリアの総督から自由都市についていくつかの報告がありました。コーラリアの外壁付近をうろついては見張りの兵と騒動を起こすなど、最近になって不穏な動きが目立つとのことです」
「ふむ、自由都市ディジー・アレンか。なるほど、なかなか頭の痛い問題よな」
「まことに。……それだけではなく、メルーシャ・コル・カッター卿からも多くの訴えがなされています。どちらかと言えば告げ口、と言った方が正しいかもしれませんが」
 淡々としたシエラの報告に耳を傾けつつ、ヴァルロは皇帝らしい豪奢な上着に袖を通し、首にずしりとした黄金の飾りを下げた。形のよい顎髭を撫でつけ、暗い色彩の双眸に楽しげな光をよぎらせる。
「それはライザード卿に関することか」
「は」
「あの者の懲りるということを知らぬな。――――心配せずとも、予には予の目的と手段があるというのに」
 そこで一度言葉を切り、ヴァルロは一国の主にふさわしい堂々たる動作で踵を返した。
「予はこれから謁見の間に向かう。ディジー・アレンについてはコーラリアの総督に一任すると伝えよ」
「御意」
「カッター卿については返答する必要もなかろう。いずれすべてが動き出すゆえな」
 金糸で縫い取りのなされた上着を翻し、扉に歩み寄っていく主君を見やると、シエラは自分でも無意識のうちに小さな息を吐き出した。
 ヴァルロは決して無能な為政者ではない。浪費癖があるわけでも、国を率いる手腕を持たないわけでも、政(まつりごと)に興味を示さない暗君というわけでもない。それどころか名君たりえる素質の持ち主だと言えたが、ヴァルロは重い税を課すことをやめようとはせず、穴だらけの施策を改めようともせず、いたるところから寄せられる訴えを黙殺して過ごしてきた。その結果、半年前には外壁都市トランジスタで反乱が起こり、今も自由都市を中心とした地方で騒乱の種が育ちつつある。
 他でもない帝国の主、ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアが望んだ通りに。
 シエラは無意識のうちに体を震わせたが、だからと言って主君のあり方に疑問を感じるはずもなく、空になった瓶を抱えてヴァルロの後に従った。重厚な樫の扉が静かに閉められ、光に満ちた室内にどこか乾いた音を響かせる。




 誰も知らない歴史の裏で、崩壊は音もなく始まりを迎えた。






    


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