金のひかりと獅子の王 2


 


 『黄金の国』レファレンディアは、優れた兵を有する軍事国家である。
 民族的な特徴のためか、始祖の代から受け継がれてきた国柄のためか、レファレンディア兵はひとりひとりが水準以上の能力を有し、多くの国が乱立する大陸にあって『軍事大国』の呼び名を確立していた。国王直属の守護騎士団ともなれば、たとえ少数でもランドーラの囲みを切り開き、国王を守りながらイグリスの砦を開放できるという絶対の自信を持っている。敵軍に獣人さえいなければすぐにでも戦闘を開始していただろう。
 その勇猛果敢で知られる騎士たちが、ある者は呆然とした表情で目を見張り、ある者は信じられないと言わんばかりに拳を震わせ、ある者は狼狽しきった様子で硬直し、口を大きく開きながら眼下で展開される光景を見つめていた。
 金の閃光が闇の中を走りぬけ、手にした細剣を鋭く振るうたびに、野営地を貫くようにして悲鳴と鮮血が噴き上がっていく。優れた視力を持つクレスの目は、剣を構えたランドーラ兵二人に向かって踏み込み、すれ違いざまにその腕を両断する細い姿を捉えていた。絶叫してうずくまる兵に一瞥もくれず、アーシェは走り寄ってきた新手を切り伏せ、その体を避けながら別の男の肩をななめに薙ぐ。断末魔の叫びと共に鮮血がほとばしったが、美貌の青年はそれを浴びる前に大地を蹴り、殺到してきた兵士の群れへ恐れる様子もなく突っ込んでいった。
 瞬く間に血煙と剣戟の音が弾け、赤黒く染まった大地に屍の山が築かれていく。
 ようやく相手がただの侵入者ではないと悟ったのか、ランドーラの兵たちは恐怖の表情を浮かべて後ずさり、司令官の指示に従って体勢を立て直そうとした。その前方に小山のような影が落ち、一瞬の間を置いて耳をつんざく咆哮が響きわたる。
 どろりと濁った目を光らせ、口からだらしなく涎の糸を引いた獣人たちが、ランドーラの人間を守るようにしてアーシェの前に立ちふさがったのだ。
「……来たか」
 普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ出すような光景だったが、アーシェは怯むどころか足を止めることさえしなかった。疾走の勢いを保ったまま懐に飛び込み、つかみかかってきた腕をつけ根から切断すると、返す刃で人間の倍ほどもある首を一気に切り飛ばす。あっという間に首と右腕を失った獣人は、まるで絶命するのを拒むように立ち尽くし、何かの冗談を思わせる動作でふらふらとよろめいた。
 それを横手から突き倒し、別の獣人が両手を振り上げてアーシェに踊りかかった。その手には剣というより鈍器に近い刃物が握られ、松明の光を映して脂ぎった輝きを放っている。まともに受ければ手にした武器ごと真っ二つにされてしまうだろう。
 アーシェはその一撃を受けなかった。ただ舞うような動作で一歩下がり、強大な切っ先を地面にめりこませ、獣人の動きが止まった瞬間を狙って細剣を閃かせる。白銀の光が目で捉えられないほどの速度で宙を走り、紙でも切るように丸太を思わせる首を跳ね上げた。空中に毒々しい色彩の滝が現れ、踏み荒らされた大地の色を黒くよどんだものへ変えていく。
 次の瞬間、周囲の兵士から抑えきれない悲鳴が上がり、喧騒に包まれた夜気を無残に引き裂いた。地面に落ちた獣人の首が大きく跳ね、鋭い牙を剥き出しにしてアーシェの足に飛びかかったのだ。
 じっとしていたら足を噛み切られただろうが、アーシェは落ち着き払った身のこなしで体をひねり、襲いかかってきた獣人の頭部を容赦なく蹴り飛ばした。ぐしゃりとしか表現しようのない音を立て、頭部は見事にひしゃげた形で天幕のひとつに激突する。白い布地に赤黒い染みが飛び散った。
 それはあまりにも現実感のとぼしい光景だった。獣人と戦っているのが百人以上の精鋭であったなら、あるいは戦闘そのものが互角に展開していくものだったなら、両軍の兵士たちもここまで衝撃を受けたりはしなかっただろう。勇ましい鬨の声を上げて武器を取り、不敵な侵入者を取り囲んで押しつぶすこともできたかもしれない。
 だが、たったひとりで獣人たちと戦い、信じがたいほどあっけなくその命を屠っているのは、美の神シェランティールの化身としか思えない華奢な青年なのだ。
 ランドーラの兵士たちは恐慌状態に陥り、とにかくこの場から逃げ出そうとする者、指示を仰ぐために司令官を探す者、無我夢中でアーシェを討ち取ろうとする者の三つに分断された。それが無秩序に絡み合い、野営地に悲鳴と怒号をこだまさせ、混乱しきった戦場に新たな犠牲者を生み出していく。
 狼狽していたのはレファレンディア軍も同じだったが、クレスだけは平然とした顔で戦場を見下ろし、騎兵と共にそこへ乱入していく時機をはかっていた。血の匂いをふくんだ風が漆黒のマントをはためかせ、悠然とたたずむ長身を恭しく飾り立てる。それを片手で払い、口元にかすかな微笑をよぎらせると、クレスは鐙に足をかけて身軽に馬上へ飛び乗った。
 精悍な面差しにどこまでも強靭な笑みが宿る。
「――――行くぞ!!」
 クレスが発したのはこの一言のみだったが、レファレンディアの兵は呪縛が解けたように大きく頷き、主君に従ってすばやく愛馬の鞍にまたがった。ファレオがクレスの横に馬を進め、ここが定位置だとばかりに主を見上げてみせる。それが準備完了の合図だった。
 オォッという勇ましい声が空気を震わせ、一拍遅れて斜面を駆け下りる馬蹄の轟きがあたりを支配した。ぎょっとしたのはランドーラの兵である。ただでさえ浮き足立っていたところに一撃を食らい、騎乗した敵兵に追い立てられ、ランドーラ軍は文字通り崩壊しながら砦の方へと押されていった。動じていないのはアーシェと戦っている獣人だけだ。
「どうした! レファレンディアの王、クレスレイドの首がほしい奴はいないのか!!」
 戦場に蔓延する喧騒の中、クレスの朗々とした声は剣戟の音にも紛れずに強く響いた。ランドーラの陣営に動揺が走り、何人かの兵がその場に立ち止まって馬上のクレスを振り仰ぐ。
「――――レファレンディア王国国王、レファレンディア・ウェル・クレスレイド!!」
 興奮に上擦った叫び声が上がり、それが波紋となってランドーラの陣営を駆け抜けていった。
「レファレンディアの獅子王!」
「その御首(みしるし)、頂戴いたす!!」
「誰がっ!!」
 途端に押し寄せてくるランドーラ兵に鋭く笑い、クレスは足を狙って突き出された切っ先を弾き返した。ランドーラの兵数はレファレンディアの倍以上だったが、油断していたところに思わぬ場所から奇襲を受け、大多数が徒歩のまま野営地のいたるところをを走り回っている。対するレファレンディアは全員が騎兵だ。うろうろしているランドーラの兵を蹄にかけ、頭上から切り倒し、強引に押し開くようにしてイグリスへの道を駆け抜けていく。
 アーシェの戦い方が神々の舞踏なら、クレスの動きは鍛え上げられた武人の剣舞だった。旋律のない音楽に合わせ、文字通り舞うようにして戦うアーシェに対し、クレスは圧倒的な力を持って相手をねじ伏せ、獅子が獲物の喉笛を噛み切るように敵へ死を与えていく。荒々しいかと思えば驚くほど精妙で、無造作かと思えば嘘のように美しい、大陸でも五指に入るレファレンディア独自の剣術だった。
「……クレスレイドさま!!」
「ファレオ、今のうちに門を開けさせろ! 獣人はアーシェが抑えてる、急げ!!」
「はい!」
 クレスの横にぴたりとつき、恐るべき早業で敵兵に矢を射こんでいたファレオが、背後の部下たちに合図を送りながら馬腹を蹴った。一団となって駆けていく臣下を見やり、クレスも敵の追撃をはばむために逆方向へと走り出す。黒馬のいななきが土煙を裂いて高く響いた。
「……大丈夫そうだな、クレスたちは」
 レファレンディア軍の様子を横目で確かめ、アーシェは形のよい唇に小さな笑みを滲ませた。その呟きが聞こえたわけではないだろうが、数体の獣人がアーシェに背を向け、ファレオたちに追いすがるべく手にした武器を振り上げる。させるか、と短く言い切り、神がかった身のこなしで大地を蹴ると、アーシェはためらいの見られない動作で獣人たちの前に滑りこんだ。
 銀の細剣で一体の脇腹を切り裂き、返す刃でもう一体の首を刎ね、横から突き出された剣の根元を素手でつかみとる。なめらかな手に刃が食いこみ、生暖かい血が白い手首を伝っていったが、アーシェは表情ひとつ変えずに獣人の手から武器をもぎとった。それをあっさりした仕草で投げ捨て、右手の細剣でがら空きになった胸を一閃する。
 動きが流れるように華麗である分、その荒っぽい戦い方は見ている者の度肝を抜いた。
「獣人の武器を素手で……っ」
「馬鹿な! 人間にそんなことができるはずが……」
 わめきたてるランドーラの兵を綺麗に無視し、アーシェは動きを止めないまま残りの獣人に走り寄った。青い瞳が壮烈な光を放ち、恐怖など感じないはずの獣人を一瞬だけ金縛りにする。
「おまえたちの相手は私だ」
 銀の光が宙を駆け、動きを止めた獣人の頭部をすっぱりと切り飛ばした。
「レファレンディアの人間に手を出すな」
 ぐぉるっ、という呻き声と共に獣人の首が飛び、それを見てしまったランドーラ兵が悲鳴を上げて後ずさった。血と汗に汚れた風が吹きぬけ、動きを止めたアーシェの髪を柔らかく散らしていく。
「――――これで全部だな」
 アーシェが淡々とした口調で呟きを漏らしても、それを好機と見て襲いかかってくるランドーラ兵はひとりもいなかった。全員が青ざめた顔に恐怖の表情を貼りつけ、胸の前で祈りの印を結び、がたがたと震えながら戦の神の名を唱えている。化け物っ、という悲痛な絶叫がいたるところで弾けていった。 
 青の瞳が淡い苦笑に細められる。
「何だ、今ごろ気づいたのか」
 そのささやきに鬨の声がかぶさり、一瞬だけ降りてきた静寂を彼方へと弾き飛ばした。ファレオたちがイグリスの砦に到達し、中の兵を率いて戦場に舞い戻ってきたのだろう。
 どうやら終わったな、と口の中だけで呟き、細剣を振るってまとわりつく血をはらい落とすと、アーシェは周囲に展開するランドーラの兵に静かな眼差しを向けた。
「どうした、もうかかってこないのか」
「……」
「戦う気がないなら降伏しろ。レファレンディアの獅子王は慈悲深い。降伏した者の命までは取らないだろう」
 その声が決定打になったのか、ランドーラの兵たちは次々に剣を手放し、魂を抜き取られた風情でその場に膝をついた。ほんのわずかに口元をゆるめ、アーシェは誰にも悟られないように安堵の息を吐く。これだけで済んでよかった、というように。
「――――アーシェ!!」
 ふいに通りのよい声が空気を震わせ、アーシェは細剣を手にしたまま背後を振り返った。自分が抜けても大丈夫だと判断したのか、ただ単にこちらのことが気にかかっただけなのか、クレスが黒馬の手綱を操ってアーシェのもとに駆け寄ってくる。地面にうずくまる死体をひょいひょいと避け、蹄をとられることも速度をゆるめることなく駆けてくるさまは、『軍事大国』を統べる者の名に恥じない勇ましさに満ちあふれていた。アーシェでさえ見事な手綱さばきに目を見張ったほどだ。
 もっとも、その勇ましさはクレスが愛馬の鞍から飛び降り、子どもっぽい表情でアーシェの腕をつかんだ瞬間霧散して消えたが。
「おまえ、大丈夫か? 左手からけっこうドクドクと出血してんぞ? ……っつーか素手で剣をつかむなよ、見ててぎょっとすんだろ」
「別に大丈夫だ、そこまで深く切れてない。つかんだのは切れ味の鈍い根元の部分だしな」
「だからって普通手で鷲づかみにするか? やっぱおまえ絶世の美形の自覚ないだろ? 美形が血を流すと妙に痛そうに見えんだから気をつけろよ?」
「……その台詞、他の誰に言われてもおまえにだけは言われなくないぞ?」
 アーシェの言葉どおり、昼間の刺客に切られたこめかみに加え、数えるのも馬鹿馬鹿しくなるような切り傷がクレスの長身を飾り立てていた。そのほとんどが取るに足らないかすり傷だが、全身を傷だらけにして首を傾げている大国の王など、あまりにも奇妙な存在すぎて笑い話にする気も起きない。
 そんなアーシェの内心を知ってか知らずか、クレスは実に偉そうな動作で胸を張り、精悍な面差しに明るい笑みを浮かべてみせた。
「俺は別にいいんだよ。怪我してても格好よく見える男前だからな」
「……それはあれか? 遠まわしに私が男前じゃない、と言ってるわけか?」
「いや、おまえは男前って顔じゃないだろ。どっちかって言うと美女が……」
 美女顔、と言いかけたクレスの鳩尾に膝を叩き込み、声もなく折り曲げられた長躯をひややかに見下ろすと、アーシェはわざとらしい仕草でふんと鼻を鳴らしてみせた。まるで迎合するように風が吹きぬけ、白皙の頬をゆるやかに撫でていく。
「馬鹿なことを言ってる暇があったら手当てくらいしておけ、この筆舌に尽くしがたい稀代の馬鹿が」
「てめぇこのヤロ、獣人を蹴り飛ばす脚力で人を蹴るか、普通……っ」
「うるさい黙れ、もとはと言えばおまえのせいだ。………まあとにかく、イグリスの砦が落ちなくてよかったな。このままランドーラとの全面戦争に突入するのはありがたくないんだろう?」
 ひどくあっさりと話題を変えた美貌の青年に、クレスは腹部をさすりながらまあな、と返した。
「何の準備もしないまま全面戦争、ってはちょっとぞっとしねえしな。国境沿いで追い返せるならそれに越したことはねえさ」
「確かに。……見たところ、まだしつこく抵抗しているのが十分の一、敗走したのが二分の一。残りは降伏したか、戦いの中で死んだか、といったところか」
「上出来だ。ま、これも全部おまえのおかげだけどな」
 太陽を思わせる表情でにっと笑い、クレスはアーシェのほっそりした肩を軽くたたいた。
 アーシェは虚をつかれた顔で瞳を瞬かせたが、すぐに凍てついた氷が溶け出すような、固く閉じていたつぼみがほころぶような笑顔を作り、純金色の髪を揺らして首を振った。
「別に、たいしたことじゃない」
「そっかぁ?」
「そうだ」
 あっさりした口調で断言し、アーシェは青く透きとおる瞳で紅の双眸を見上げた。稀有な美貌に怪訝そうな表情がよぎる。
「……というか、おまえはこんなところで油を売ってていいのか? 仮にも総大将で国王だろう。レファレンディアの兵がおまえのことを探してるぞ? ……ほら」
 アーシェの言葉が真実であると示すように、クレスレイドさまっ、というファレオの声が夜の空気を震わせた。クレスが悪戯めいた表情で首をすくめ、血と泥で汚れた黒髪をがしがしとかき回す。
「だな。あんまりさぼってるとファレオたちに殺されちまうか」
「さぼってるっていう自覚はあったわけか」
「うるせぇ、揚げ足取り禁止! ……んじゃあちょっと行ってくっか」
 おとなしく待っていた愛馬に手を差し伸べ、首筋を撫でてやりながら手綱を取ると、クレスはやや離れた位置でまなじりをつり上げている臣下に笑みを向けた。バタバタと軽い動作で手を振り、ますます表情を険しくするファレオに向かって声を張り上げる。
「あー行く行く、今そっちに行くからそう怒んなって! 別にいいだろ、ちょっとアーシェに声かけるくらい!! ――――っと、何してんだ、行こうぜ、アーシェ」
「……ああ」
 答えるまでにほんの少しの間が空いたが、クレスがそれに気づく前に小さく頷き、アーシェは黒衣の背中に続いてゆっくりと足を踏み出した。化け物という言葉に対する痛みと悲しみ、そしてどうしようもない諦念が音もなく薄れていくのを感じながら。






    


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