光あれ 2


 

 
 髪をかき回してくる手に目を細め、レイは小さく笑いながら長身の青年を見上げた。ダークブラウンの瞳に自分が映るのを確認し、どこかくすぐったいような柔らかい思いにとらわれる。初めは何もかもが異なる環境にひどくとまどったが、一度周囲のすべてに慣れてしまうと、この世界も拓馬という名の青年もレイに優しかった。手放したくないと思ってしまうほどに。
 それが叶わないことだと知っているレイは、だからこそふわりと微笑んで空に視線を移した。
「……タク、星だ」
「星?」
「ああ、明けの明星がまだ見える。すごいな、朝日がこんなにまぶしいのに」
 レイの言葉通り、朝日の中に白い星がうっすらと浮かび上がっていた。目を庇うために片手を持ち上げ、拓馬もレイにならって明けていく東の空を見上げる。そうだな、と穏やかな調子で呟き、まぶしそうな仕草でそっと目を細めた。
「朝方に星が見える、ってのも何か妙な感じだけどな。月ならともかく」
「確かに。……知ってるか、タク? 明けの明星に願いをかけると、その願い事は叶うんだそうだ」
 拓馬の言葉に苦笑をもらし、レイは何気ない調子を保ったままで言葉を続けた。拓馬が軽く目を見張る。
「それは流れ星の話じゃないのか? 消える前に三回願い事を唱えたら叶う、っていう」
「普通はそうなんだが、僕が母上に聞いた話は違ったんだ。……何だったかな、流れ星はすぐに消えてしまうから、そんな今わの際の力じゃ願いなんて叶わないだろう、とか。それよりも、朝になってもしつこく空に残ってる星の方が底力がありそうだから、人間の願い事だって叶えてくれるだろう、とか。まあ、僕もまだ幼かったし、くわしいことを覚えてるわけじゃないんだが」
 くすりと微笑したレイを見下ろし、拓馬は何とも表現しがたい顔を作って目を瞬かせた。
「……なんていうか、すごい母親だったんだな。お前のお袋さんは」
「すごいというか、大らかな方だったみたいだ。だからだろうな。流れ星に願うより、最後まで空に輝き続ける明けの星に願え、って仰ってたのは」
 試してみたくて一時期は早起きばかりしてたよ、と小さく呟き、レイは懐かしむように漆黒の双眸を細めた。
 幼い頃に死別したせいか、母の記憶は薄紗を通したようにあいまいで、思い出そうとしてもぼんやりと霞んだ映像しか浮かんでこなかった。レイが記憶している『明けの明星の話』も、もしかしたら他の人間に聞かされ、それを頭の中で母の言葉に置き換えてしまっただけかもしれない。明敏な少年はその可能性に気づいていたが、それでも構わないと思っていた。大切なのは今、レイがその話を愛しく思い出させるという事実なのだから。
「小さな頃から癖、かな。今でも明けの明星を見ると願い事がしたくなるんだ。……まあ、叶うわけじゃないのは知ってるんだが」
「……願い事か。たとえば何て願うんだ?」
「そうだな、世界が平和でありますように、とか?」
 冗談めかしたレイの言葉に、拓馬は星を見上げながら小さく噴き出した。レイもくすくすと耳に心地よい笑い声を立てる。
「すごい願い事だな、それ。ある意味一番叶ってほしい願いだが、ちょっと星には荷が勝ちすぎるんじゃないか?」
「それもそうか。――――それじゃあ、僕の周りにいる大切な人たちが、幸せでありますように、っていうのは?」
 ざぁっと音を立てて風が吹きぬけ、艶やかな漆黒の髪を巻き上げていった。風に遊ぶ髪を押さえることもなく、レイは目をすがめて明度を増していく夜明けの空を見つめる。貴い祈りを捧げるように。大切な言葉をかみ締めるように。
「他力本願……いや、この場合は他星本願、かな。そういうのは好きじゃないが、願うのは嫌いじゃないんだ。自分が望んでいることを確認できるような気がするから」
「……」
「僕の大切な、愛しい人たちの行く手に、抱えきれないほどの幸せと光があればいいと思う。傷ついたり、悲しんだり、辛い思いをしたりしても、最終的には光の中で笑っていられればいいと思う。……傲慢かもしれないし、そう思っている自分が好きなだけかもしれないが、こうやって願うのは本当に嫌いじゃないんだ。――――あ、でも」
 これは口に出していうべきことじゃないな、と苦笑まじりにささやき、レイは静かに拓馬の双眸を見上げた。そこに映る黒髪の少年と視線を合わせ、口の端にやんわりと微笑を浮かべる。
 大切な人たちが幸せであればいいと思う。偽善でも、欺瞞でも、自己陶酔のための言葉でもなく、レイは痛いほどの思いを持ってそう願っていた。自分自身の幸せを願う必要がないからだ。周囲の人間が命さえ投げ打って守り、長らえさせてくれたレシェリクト・フィル・デュロスという名の『王』は、その存在そのものが多くの人の願いの結晶だった。それを誰よりも理解しているいるからこそ、レイは明けの星を仰いで願わずにはいられない。愛しい者たちが幸せであるように、その生が光に満ちたものであるように、と。
 そんなことを思って目を細めたレイに、低く穏やかな声がかけられたのはその時だった。
「……似てるな」
「え?」
 きょとん、と目を見張ったレイから視線を外し、拓馬は白々と輝く明けの明星に瞳を向けた。
「だから。お前は似てるな。あの一つだけ光る、白い星に」
「……タク?」
「こう、控えめなのにすさまじく目を引くところというか、一番強く光ってるところというか。他の星は消えちまったのに、ああやって綺麗に残ってるところというか、な。……ああくそ、口に出したら妙に痛々しい文学的表現みたいになっちまう、だからこう、何ていうか……」
 ぐしゃぐしゃとダークブラウンの髪をかき上げ、あー、と意味を成さない呻き声を上げながら、拓馬は目を見張るレイをまっすぐに見下ろした。双眸が真剣な光を湛えて深く輝く。
「うまくは言えないけどな、とにかく、お前はあの星に似てるよ。どんな願いでも叶えてくれそうなところが特に。……お前とおれがはじめて会った時のこと、覚えてるか?」
 レイは無言で一つ頷き、続きを促すように拓馬を見つめた。その視線を穏やかに受け止めて、拓馬は漆黒の瞳を見つめながら言葉を続ける。
「お前と会わなかったら、多分おれはあの『S−W』の戦いで死んでた。まあ、一人でどうにかなるような状況じゃなかったしな。それでも必死にどうにかしようとしてた時、今みたいに明けの明星が見えたんだ」
「……」
「それに向かって『死んでたまるか』って願いをかけたら、いきなりお前が現れて、すったもんだの挙句に基地まで帰れただろ。……だから多分、おれの願いを叶えてくれたのはお前なんだと思う、レイ」
 どこまでも真摯な表情で言い切ってみせた拓馬に、レイは大きく目を見開いた。
「タク、それは……」
「『それが違う、僕の方こそ……』とか言うんだろ? いいから黙って聞いとけよ、おれはお前に感謝してるんだから」
「え……」
「戦いだけじゃない。お前と会えて、精神的にもずいぶんと救われた気がする。子供らしくしろだの、大人みたいな物言いをするなだの、散々偉そうなことを言ったけどな。お前を甘やかそうと決めたから、おれは自分が『大人』だってことを認識して、こんな戦地の直中でも立ってられるんだと思う。――――まだ二十五歳だってのに、この年で擬似父親体験もできてるしな」
 最後まで真面目に続けるのは照れくさかったのか、拓馬は軽く笑ってレイの頭を乱暴に撫でた。レイは何かを言おうと口を開きかけ、結局は思いなおしたように口をつぐむ。代わりにゆったりと瞳を細めた。
 レイは拓馬に頭を撫でられるのが好きだった。少しでもこの時間が長く続けばいい、と思ってしまうほどに。永遠を強く願ってしまうほどに。
「……よかった」
「ん?」
「少しでも、あなたの役に立てたならよかった。僕もあなたに会えてとても救われたから」
 驚きの表情を過ぎらせる拓馬を見やり、レイは朝日を思わせる透きとおった微笑を浮かべてみせた。
「あなたに会えてよかった。僕は『王』だから、いつか国に帰らなければならないし、それを厭う気持ちは一つもないけど。……それでも、あなたや比呂たちの傍は信じられないくらい心地よかった。許されないと知っていても、ずっとここにいたいと思ってしまうくらいに」
「……レイ」
「ただの子供として僕を見てくれたのは、多分あなたが初めてだったんだ。王であることを誇りに思う気持ちと同じくらい、頭を撫でてくれた手や、『子供らしくしろ』って言ってくれた言葉が嬉しかった。――――だから、あなたには本当に感謝してる。ありがとう。タク」
 いつか皇国デュロスに帰る時が来ても、レイは拓馬が与えてくれた優しさを忘れないだろう。王としての誇りを胸に抱きながら、ただの少年でいられた時間を懐かしく思い出すことが出来るだろう。そんなささやかな事実がひどく嬉しくて、レイは声を立てずにくすりと微笑した。
 いつの間にか太陽は完全に姿を現し、周回コースや基地の建物を明るい光で縁取っている。薄れていく星を惜しむように見上げ、透きとおる漆黒の瞳をそっと細めたレイに、拓馬は形の良い眉をきつくひそめた。
「――――なぁ、レイ」
「なんだ、タク?」
「……なぁ。お前さ、帰る方法がわかったら、すぐに国に帰るのか?」
「え?」
 質問の意味をつかみ損ねたのか、レイは目を瞬かせて首を傾げた。拓馬がもどかしげに溜息を吐く。
「だから、な。お前、どうしても国に帰らなきゃならないのか?」
「……タク?」
「お前さえよければ……」
 そこでためらうように言葉を切り、拓馬はダークブラウンの瞳を明けの空に向けた。白い星はまばゆい光の中に吸い込まれ、すでに肉眼では捉えられなくなっている。ふっと細く息を吐き、青さを増していく空に目をすがめると、拓馬は意を決したように美貌の少年へと視線を戻した。
 ひんやりとした風が音もなく吹き過ぎていく。
「あのな。お前さえよければ、国に帰らないで、ここにずっといてもいいんだぞ?」
「……え」
 想像もしなかった言葉を聞かされ、レイは大きく黒玉の双眸を見開いた。






    


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