6 鍵となる者


 


 カイゼルが紫苑を伴って向かったのは、法令や記録の保管などを司る典令省だった。
 彼の権限をもってすれば、少年一人の身分を買うことなどあまりにもたやすい。カイゼルは皇祖の御世から栄えたライザード家の当主であり、帝国軍の総称であるエルカベル騎士団の団長だからだ。
 本来ならば侍従に出向かせ、典令長官にシオンの身分を決定させることも可能な立場だったが、カイゼルは自身が足を運ぶことを選んだ。文官の中では高位である典令長官に敬意を払って、ではない。単に、昨日拾った少年を街に連れ出すための口実だった。
 カイゼルの視線の先で、その少年がめずらしげに街並みを見つめていた。
 彼らがいるのは、屈強な奴隷に担がせた輿の中だった。馬でいくほどの距離ではないためと、皇宮付近では馬があまり好まれないためだ。馬に乗らなくてもすむ、と知った時の、シオンの安堵に満ちた表情といったらなかった。よほど半日の乗馬が堪えたらしい。カイゼルはあまりの軟弱ぶりに呆れたが、別に不快には感じなかった。
「馬に乗らずにすんで嬉しいか、シオン?」
 からかうようにカイゼルが声をかけると、シオンは慌てて外へ向けていた眼差しを戻した。輿は天井部分から紗幕が張られた形になっていて、その隙間から外を伺うことができる。シオンが帝都に興味を持っているのは明白だった。それでも、カイゼルに声をかけられればすぐに視線を外す従順さは、やはりカイゼルにとって不快なものではなかった。
「……あ」
 外ばかり見ていたことを咎められると思ったのか、途端にシオンの表情が曇った。何てわかりやすいヤツだ、というのがカイゼルの感想である。
「いちいちビクビクするな。小動物か、お前は?」
「申し訳ありません……」
 今度はしゅん、とうなだれてしまった。実に素直な反応だ。これでもうすぐ十八だというのだから、カイゼルとしては驚かずにはいられない。カイゼルが十八の時など、すでに騎士団第二位階の騎士として地方反乱の鎮圧に奔走していたのだから。
 さらに、シオンは上背もなく、体つきも一般的なエルカベル人と比べれば華奢だった。それがますますこの少年を幼く見せている。だが、単に子供っぽいだけかというと、そうとも言い切れない雰囲気を持っていた。
 セスティアルが選んだ白の上衣に、明るい茶色の下穿きをまとった姿は、マントと長い髪さえあれば貴族の子弟と言っても通用する気品があった。セスティアルが銀の飾りでゆるく結った薄茶色の髪に、湖を思わせる碧の瞳も、単なる平民や奴隷階級の者が持ち得ない清冽な空気を醸し出している。
 売ったらさぞ高いだろう、という考えがカイゼルの脳裏を掠めた。もっとも金銭など、カイゼルにとってはありすぎて把握するのも面倒くさい、目的を達成するために使うだけの二次的なものにすぎない。金を稼ぐことこそを目的としている者たちにすれば、あまりの悔しさに卒倒しそうな金銭感覚の持ち主だった。だが、シオンにとっては幸いだったと言えるだろう。少なくとも、金目当てに売り払われることだけはないのだから。
 柔らかな敷き布の上にあぐらをかき、カイゼルはきっちりと正座しているシオンに楽しげな笑みを向けた。
「俺のもとで働くなら、お前にも乗馬くらい覚えてもらわないと困るな。馬にも乗れないヤツは役に立たん、死に物狂いで覚える覚悟はあるか?」
「あります」
 ぱっと上げられた視線と共に返されたのは、意外なほどしっかりとした答えだった。ふん、とカイゼルは胸中に笑みを漏らす。やはりただの軟弱な子供ではない、と。
 それは何故か、不思議な高揚感をもたらす認識だった。出会ったばかりの、特に優れた能力を持っているわけでもない子供だというのに。
 こうも興味が引かれる理由を、カイゼルは自身の中に見出すことができなかった。だが、奇妙な確信があるのも確かだった。じきに明らかになると。カイゼルは己の勘を信頼している。宮廷での権力争いで役に立つのは理性と虚勢、そして金銭と家名だが、戦場で役立つのは実力と勘なのだ。だからだろう、元々さして気まぐれを起こす方でもないのに、シオンをいう得体の知れない少年を拾う気になったのは。
 カイゼルは喉の奥で低く笑った。
「とりあえず、お前は人買いに攫われてきた地方都市……そうだな、肌の白さからいって、北方のカロナ辺りか。そこの平民ということにしておく。カロナは独立志向の強い地方都市の中でも皇帝に従順な方だ、問題はないだろう。お前も下手なことは言うなよ? たとえつっかかられても軽く流せ。できるな?」
「はい。北方の地方都市の、カロナ、ですね。……あの、商人や農民なども平民に含まれるのですか?」
「ああ。生産階級は主に平民。それに使われている使用人なんかが主に奴隷だ」
「……でしたら、僕が農民、では多分怪しまれてしまいますよね。商人の子、でも専門知識が足りませんし……」
 シオンは自らの手に視線を落として、やや困ったように呟いた。白く滑らかな手は、過酷な農作業に従事する者の手ではありえない。商業を生業とする者も、己の専門分野には莫大な量の知識を誇るものである。そうでなくては生き残ることができないからだ。シオンの明敏さを感じ取り、カイゼルはますます楽しげに笑みを深くした。
「そうだな。そこそこ裕福な商家の病弱な息子、ということにでもしておけ。病気がちで外に出たことがあまりなく、親の職業に対する知識も浅い。だが最近になってようやく病も完治し、親の行商について出かけたところを人買いに攫われた。シオン・ミズセなんて名もめずらしいが、まあなんとかなる。こんなもんでいいだろう」
「はい」
 シオンの表情は真剣そのものだった。カイゼルに言われたことを懸命に頭に叩き込んでいるのだろう。実際、シオンはすでに覚悟を決めていた。生きていくためには、日本の高校生である水瀬紫苑ではなく、エルカベル帝国の北方の都市、カロナで生まれたシオン・ミズセとならなければならないと。理解の早いシオンの頭脳は、カイゼルに言われたことのすべてをしっかりと刻み込んでいた。同じことを何度も聞き返されるのが嫌いなカイゼルにとって、優れた記憶力を持つ存在は何より好ましかった。
 生真面目な表情を浮かべるシオンに向かい、カイゼルが笑みと共にさらなる言葉をかけようとした、その時だった。
「……きたな」
 カイゼルの意識に引っかかったのは、戦場ではさしてめずらしくもない、ざわつくような慣れ親しんだ感触だった。だから特に慌てることもなく、それが命じるままに向かいに座ったシオンに腕を伸ばす。目を丸くする少年の頭を押さえつけ、姿勢を低くさせた。
 次の瞬間、大きな揺れが輿を襲い、一瞬前までシオンの頭があった位置を煌く光の剣が薙ぎ払った。
 ほんのわずかに降りた空白の静寂の後、ガッという音と共に輿が傾き、強く地面に叩きつけられた。担いで歩いていた奴隷が輿を取り落としたのだ。
 だがその時には、すでにカイゼルとシオンは輿の中にいなかった。荷物でも扱うようにシオンを抱え、カイゼルは紗幕を跳ね除けて外に出ている。それを狙ってさらに走った衝撃を、動きを止めずに背後へ飛んでかわした。シオンを片手で抱えたままで。
 貴族の住まう豪奢な住宅街を出て、多くの省が構えられている一角へとさしかかる、閑散とした空白地帯。カイゼルは舌打ちすることも訝ることもなく、冷めた表情でその場所を眺めやった。背後では、遠くから打ち込まれた『魔力』によって肩を負傷した奴隷の一人が呻き、他の奴隷たちは恐怖に顔を引きつらせている。下ろされたシオンも呆然としていた。
「……カイゼル、様?」
 シオンの声は震えてはいなかった。まだ事態が飲み込めていないのだろう。カイゼルは誰よりもよく何が起こったのかを把握していた。だからこそ、その表情は冷め切っていた。まるで出来の悪い喜劇を見せられ、完全に白けてしまった観客のように。
「生きてるな、シオン」
「……えっ、あ、はい、生きてます!」
「よし。気にするな、よくあることだからな」
「え、えぇっ!?」
 あまりのことに目を見開くシオンの襟首を、再びカイゼルが引っつかんだ。軽い荷物を持ち上げるように引き寄せ、遠くから飛来した魔力に空を切らせる。自身を狙った魔力は『結界』によって弾いて消し去った。わぁっ、と悲鳴を上げて奴隷たちが逃げ惑う。逃げ遅れた一人が腕を掠められ、甲高い悲鳴を上げて大地に倒れこんだ。
「襲撃だな、白昼堂々、ご苦労なことだ」
「襲撃、って。カイゼル様は貴族で、騎士団長なのでは……」
 そこまで言って、シオンは何かに気づいたように碧の目を見張った。身分が高いからこそ、それに比例して敵も多いのかもしれない。だが、最高位に限りなく近い権力者を襲うなど、正気の沙汰とも思えないのも事実だった。平民や奴隷のように、たやすく揉み消すことなど不可能ではないか。わけがわからずに混乱するシオンに、カイゼルは危機感など微塵も感じていないような、そっけない笑みを浮かべてみせた。
「俺は人気者なんだよ。貴族のヤツらに、それはそれは熱烈にな。俺を思うあまりに正気を失った大貴族の当主もいるほどだ」
 つまり、正気を失うほどカイゼルを亡き者にしたがっている相手がいる、ということだろう。シオンは上手く働かない頭を叱咤して、震えそうになる膝を必死に伸ばしながらカイゼルを見上げた。
「じゃあ、じゃあどうして、護衛をつけないで来たのですか!? セスティアル様も置いて……っ」
「何故だと思う?」
 相変わらず、カイゼルの返答は平然としていた。シオンを引き寄せたまま倒れた輿の影に長身を滑り込ませ、姿を見せない襲撃者の攻撃の盾にしている。奴隷たちの悲鳴がふいにシオンに届き、碧の瞳が大きく揺らいだ。
 カイゼルはそれに気づいたが、だからといって何も行動を起こさなかった。襲撃者の狙いはカイゼルだ。ここで結界の外に出ては狙い撃ちになるだけである。シオンもそれはわかっているようで、強く唇をかみ締めただけで何も言わなかった。甘い、戦に慣れた者ではありえない子供だが、確かに馬鹿ではない。
 泣き出しそうになりながらも、シオンは引きつりそうになる喉を懸命に動かしてカイゼルに答えた。
「…………敵を、おびき出すために、ですか?」
「正解だ」
 ふっと鋭く笑って、カイゼルは輿の向こうへ深青の瞳を放った。乱発しても効果はないと思ったのか、魔術による射撃は一時収まっている。
「いいか、シオン。お前はここにいろ」
「…………っえ」
「動くなと言ったんだ。下手に動くと結界が壊れるからな」
「カイゼル様っ……」
 シオンが叫んだ時にはすでに、カイゼルの長身は輿を飛び越えて、広々とした道の上に飛び出していた。




 シオンは必死に瞳をこらして、輿の影からカイゼルの後姿を見つめていた。
 音もなく走った銀光を、まとわせた小範囲の結界で弾きながらカイゼルが飛び退る。シオンに見えたのはそこまでだった。理論上、光速を越える速さは存在しないのだから、それを避けたカイゼルは魔術で身体能力を上げているのだろう。
 落ち着け、と自らに言い聞かせ、シオンは何とか冷静さを保とうとした。野盗に襲われた時にセスティアルが見せたものを除けば、シオンが『魔術』と呼ばれるものを目にするのはこれが初めてだった。
 物理的な光とは違うのかもしれない。光り輝く矢のようなものが、無数に降り注いでカイゼルを貫こうとしていた。シオンの目では捉えることは叶わなかったが、よく見れば、それの出所が数箇所に集中していることに気づいただろう。当然のこととして、カイゼルはその事実気づいていた。だからこそ無謀とも思われるような行動を取り、反撃の機会を伺っているのだ。
 シオンにできることと言えば、カイゼルに言われた通り動かずにいて、足手まといにならないよう注意することだけだった。薙ぎ倒された輿の影に体を縮め、なるべく狙われないようにぎゅっと手足を引き寄せる。
 シオンは、昔からよく誘拐騒ぎに巻きこまれる子供だった。母が著名な舞台女優のためもあるし、父がやはり有名な企業の重役なためもある。だから危険には慣れていたが、このように現実にはありえない命の危機に晒されたことなどない。何より、シオンは人が死ぬのは嫌だった。
 今も、輿の向こうから奴隷の男の悲鳴が聞こえた。
 この時、シオンは動くべきではなかったのかもしれない。カイゼルの言いつけに背かず、何も見ないように目を閉じて耳を塞ぎ、あの強い青年が騒ぎを収めるのを待っているべきだったのかもしれない。だが、頭ではわかっていても見てみぬふりはできなかった。
 特別な理由など何もなく、ただ目の前で人が死ぬのを見過ごすことできなかった。
「…………助けて、助けてくれ! たすけて……っ」
 倒れた男が、喘ぐように助けを求めていた。必死になって、助けれくれと繰り返していた。ぐらりと、強すぎる眩暈がシオンを襲う。
 駄目だ、と思った。死んでは駄目だと。見殺しにしては駄目なのだと。
 そう思った瞬間、シオンの足は無意識の内に立ち上がり、倒れ伏した輿を乗り越えて地面を蹴っていた。






    



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