7 切り札


 


「……………やめろっ!!」
 泣き声のように響いた声と、その瞬間世界を支配した『絶叫』と。どちらが先だったのか、理解できた者はいなかった。
 その場にいた者が認識できたのは、倒れ伏した輿の陰から華奢な人影が飛び出して来たことと、その少年が奴隷の一人を庇うように立ちはだかったことと、その少年を魔力の刃が切り裂く寸前、透明な銀の光が爆発して世界の支配者となったことだけだった。
 文字通り、爆発したのだ。
 眩い光の奔流が、ただ一点を中心として。
 濁流が小さな雨滴を飲み込んで押し流してしまうように、波濤となって広がった光は攻撃の魔術にぶつかり、ほとんど瞬間的に取り込んで掻き消した。銀光はそこで止まらない。空間の色彩が染め変えられていく様は、一気にかけられていた薄い幕をはがして、下に隠されていた銀色の世界を露にしたようだった。
 カイゼルはわずかに目を見張った。彼らしくもないことだが、確かに虚をつかれた表情で動きを止めたのだ。
 光はいつまでもその場に残ることなく、空間の色を奪いつくした後すぐに弾けて消えてしまった。言葉通り、一気に天空へ吹き飛ばされたように弾け飛んだのである。
(…………なんだ?)
 カイゼルが気づいた時、どこかから遠視の術を用いて彼を狙っていた魔力の軌跡は、突風に吹き消された蝋燭の火のように消えていた。それどころか、空間に息苦しいほど満ちていた魔力の濃度が激減している。魔術師が力を行使する際の『力場』が、先ほどの銀光に吹き払われて消し飛ばされてしまったようだった。
 そうだというのに、カイゼルが全身に宿らせていた魔力は一片も損なわれていなかった。シオンと奴隷の男を狙った力の延長にあった、敵の使う魔力だけが消滅しているのだ。
 時間の流れが止まったような短い静寂は、何かが地面に落ちる軽い音によって破られた。カイゼルの鋭い視線の先で、小柄な少年の体が地面に崩れ落ちた音だった。
 チッと低く舌打ちし、カイゼルは一足飛びで倒れた少年に駆け寄った。走り出しながら無造作に腕を一閃させる。力を奪われたことによって、強い狼狽の気配を見せながら逃走しようとしていた魔術師の一人が、真空の剣に胸を切り裂かれて建物の頂上から落下した。
 建物の少ない閑散とした地帯で、相手に自分のいる場所を悟られずに地上の敵を狙撃する。カイゼルを狙った者たちの思惑はひどく簡単で、失敗する可能性は著しく低いはずだった。だがそれは、思いもよらなかった存在によって一気に覆された。
「おい、シオン!」
 名を呼んで抱き起こしたが、少年の瞼はぴくりとも動かなかった。白皙の面には血の気がなく、蝋人形のように青ざめている。それでも呼吸は正常に繰り返されていた。意識を失っているだけだと判断し、カイゼルは訝しげに眉を寄せた。
 銀色の光を爆発させたのは、ここにぐったりと倒れ伏している、何の力もないはずの少年だった。
 そして先ほども今も、シオンの体からはかすかな魔力の残滓さえ見出すことができなかった。どれだけ視線を凝らしても、どれだけ意識を集中させても、誰もが持っているはずの魔力を感じ取ることができない。シオンが魔力を欠片たりとも持っていないという、ありえない確信だけがカイゼルの中で強まっていった。
 魔力の強弱を絶対のものと考えるシェラルフィールドの棲み人にとって、それは恐怖に直結してもおかしくはない認識だった。本当にシオンが魔力を欠片も持たないのだとしたら、あるいは魔力を消し去ることができるのだとしたら、エルカベル帝国の礎となる「最も強き魔力を有する皇室は絶対であり、不可侵のもの」という考えが根底から崩れ去ることになる。それはエルカベルの臣民にとって忌むべき事態のはずだった。
 だが、カイゼルに浮かべた表情は、恐怖などとは程遠い微笑だった。
「おい」
 カイゼルの声は、呆然と座り込んだ奴隷の男に向けられていた。シオンが庇った青年だ。男は弾かれたちょうに顔を上げ、急いで主の前に膝をついた。奴隷として叩き込まれた教育が、どんな場合でも主の意向に従うことを強要してくるのだろう。シオンが目覚めていたら、それを見て悲しげに目を伏せたかもしれない。
 カイゼルはそれをそっけなく一瞥したのみで、その男の方へシオンの体を押しやった。
「お前はこいつに守られたな。なら今度はお前が守れ。ちゃんと見ていろ、いいな?」
「…………はっ」
 男がしっかりと頷いてシオンを抱き取ったのを確認し、カイゼルはさっさと立ち上がった。魔術師が潜んでいる場所はすでに見つけてある。すぐに逃げれば良かったものを、あまりに信じ難い事態に自失したのか、カイゼルが感じた気配は減っていなかった。
 馬鹿が、と冷たい笑みが口元に浮かぶのを自覚した。カイゼルは強き魔力を身に帯びると同時に、自らの肉体を鍛え上げた武人だった。魔力を辿らなくとも、人間が発する気配を読むことなど呼吸をするよりたやすい。
 ひややかな微笑はそのままに、カイゼルは低く不思議な音律のある言葉を綴り始めた。短い歌のようにも聞こえるそれは、神代の言葉と呼ばれる魔術発動の鍵だ。簡単なものならば省略することも可能だが、大規模な魔術を使う時にはたとえ『レイター』であろうとも詠唱が必要になる。
 ぐんと圧力を増した魔力に気づいたのだろう、敵の魔術師たちの気配が一斉に揺れた。最高位に限りなく近い魔力を持たなければ、魔力を至上のものと考えるエルカベル帝国で騎士団長を務められるはずがない。今更ながら恐怖に駆られたように、魔術師たちは慌てて今居る場所から逃げ出そうとした。転移の術を使おうとした者もいたのか、ひどく早口な詠唱が空気を揺らしてカイゼルまで届く。
 だが、その場から逃げ切れたものは一人たりともいなかった。
 最後の一音が大気を震わせたのとほぼ同時に、前触れなく巻き上がった焔が翼を広げ、すさまじい光と熱気を生み出しながら空気の色を染めかえた。翼は風を生みながら羽ばたき、天を突くようにそびえ立っていた建物を包み込む。それは優しい抱擁ではなく、信じられないほどの高温を宿した死の口づけだった。一拍遅れて地を揺るがす轟音が響き渡り、崩れる石材の破片に混ざって火花がきらきらと散った。
 たった一瞬の間に、重厚な石造りの建築物は雪崩を打って崩壊してしまったのだ。
 朱色を抱いた金の光をまとわせ、炎の残照を従えながら崩れ去る建物を見ていたカイゼルは、感謝しろよ、と戦慄するほど通りの良い声でささやいた。
「たかが雑魚の魔術師ごときが、『統帥』たる大将軍の俺の手にかかって死ねるんだからな」
 それはあまりにも傲慢で、そして絶対的な支配者の言葉だった。
 舞い散る砂塵も、降り注ぐ子供頭ほどもある破片も、すべてがカイゼルに届く前に硝子の壁に阻まれたように地に落ちている。本当に透明な板が張られているように、すっぱりと直線を挟んで空気の色さえ異なっていた。
 風に榛色の髪をなぶらせながら、カイゼルは奴隷に抱えられたシオンに向き直った。カイゼルの背後にた彼らには、当然のこととして破壊の余波は届いていない。それでも恐怖に引きつった顔の男を無視し、カイゼルはシオンを見つめながら楽しげに笑った。
 もうもうと立ち上る砂埃と、揺らめいて消えていく朱金の光を負って佇む姿は、武人というより戦を司る神のようだった。
「やはり、俺の勘は外れないらしいな」
 予想を遥に上回る掘り出し物だ、と誰にともなく呟いて、カイゼルは低く喉を鳴らしながら笑い声を響かせた。
 魔力に支配される世界で、その身に一片の魔力も宿さない存在。そして何故か、それ故に魔力の支配をはね退けてしまう稀有な存在。
 それが示す事実はただ一つ、使いようによっては切り札になり得る、ということだ。
 わけがわからない、という顔をして沈黙する奴隷の腕の中で、シオンは力なく眠り続けていた。
 何が起こったのかを、恐らくは誰よりも知らないままに。
 ただどこかで響いた『声』を聞くことができたのは、この世界でシオンだけだった。



 
 あらゆる音を一斉に鳴り響かせたように、どこかで歌声が響き渡った。
 機械仕掛けの沃野と、餓えた美しき荒野の狭間で。
 あるいはその片方で。
 あるいはその両方で。




 出で給えかし
 出で給えかし
 遥か いずこより 神はぶる歌は響いて
 幸え給え
 幸え給え
 永久なるかむよごとを綴るだろう
 出で給えかし
 出で給えかし
 ああ貴なる君よ
 時は繰り返す 鍵は目覚められた
 幸え給え
 幸え給え
 時は繰り返す 神代の時は歴史を刻んだ




「……ああ」
 漆黒をまとう番人は、虚空を見つめながらうっとりと呟いた。
「……これは」
 最高位の魔術師である青年は、晴れた青空を見上げて愕然と呟いた。
 世界を染め上げた銀色の輝きは、満ち溢れた瞬間にはすぐに弾けて消えてしまい、すでにその名残も残ってはいなかった。
 だが見紛うはずもない。
 それはずべてが『揃った』ことを証立てる、始まりの輝きであったから。
 それはあるはずのものを宿していない、存在するはずのない光であったから。
 覇者のもとへ集う、散り放たれた鍵の最後の一つ。それを知る者と知らない者は、だが奇しくも全く同じ言葉を紡いだ。
 一方は歓喜と期待に満ちた声音で。
 一方はかすかな不安と期待がせめぎあう声音で。
「始まった」
 何が、と尋ねられた声に、答えは当然返るはずもなく。
 ただ歴史は動き出した。
 始まりである終着点へと戻るために。
 片翼がいくつにも分裂するならば、もう片翼はたった一つに。片翼が機械仕掛けの楽園と化すならば、もう片翼は原始の命溢れる大地に。
 その理を繰り返すために。
 理由を知る者と知らない者が、神託にも似た言葉で一つの終焉と黎明を予言する中、不安げに揺れる声が再び漏らされた。
 どうして、と。
 それに返される声は、やはりどこにもなかった。






    



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