8 響きあわない音色たち





 エルカベル帝国の法令と記録の管理を司る典令長官、メルーシャ・コル・カッターは不機嫌の極みにあった。
 大きく張った四角い顎に太い首、決して長身とは言い難いが弛みの見られない体躯、半ば白くなりながらも減退だけはしていない頭髪、そして同色の端がつり上がった眉。厳格、という言葉を具現化して色をつけたような壮年の高官は、どっしりと自室の豪奢な椅子に腰かけ、手にした酒盃を意味もなく弄んでいた。いっそ禍々しいほど赤い液体が揺れ、燭台に燈された魔術の光に照らされて鮮血のように煌いている。
 まるで彼の憤りをそのまま映しているような色彩に、メルーシャの背後に控えた侍従の男はわずかに首をすくめた。もちろん主たるメルーシャには気づかれない程度の、ひっそりとした動作で。
「……あの若造が」
 ややあって零された呟きに、ピシャッという赤葡萄酒が跳ねる音が被さった。低い声音は平静を装っていたが、銀の酒盃を握り締めた手は神経質に震えている。それは煮えたぎるような怒りの表現であることを、侍従であるディプス・ロウル・フルガスはよく理解していた。
「…………ライザード大将軍、でございますか? メルーシャ卿」
「ライザード大将軍?」
 躊躇いがちにかけられたディプスの声に答えたのは、ぎらぎらと燃えるような光を放つ灰色の瞳だった。それを見た瞬間、しまった、とディプスは己の間違いを悟った。どうやら主君の望む合いの手ではなかったらしい。かと言って、沈黙したままでは典令長官は機嫌を損ねること甚だしいのだ。
 己の侍従である中流貴族の青年を見遣って、大貴族の当主であるメルーシャは倣岸に鼻を鳴らした。
「……ふん、ライザード大将軍だと。我らが誉れ高きエルカベル帝国にあって、軍務長官と騎士団長にのみ与えられる大将軍の地位か。それが、今では家柄が立派なだけのあんなひよっこの尊称とはな。帝国の威信も地に落ちたと見えるわ」
「メルーシャ卿……」
「しかも……しかもあの若造がっ!」
 ダンッとけたたましい音を立てて、まだ半分ほど中身を残した酒盃が卓上に叩きつけられた。鮮血を思わせる赤い液体が跳ね、しっとりとした艶を見せる黒曜石の卓にいくつもの模様を描く。だが、メルーシャは服の袖口に染みがつくのも構わない様子で、今はここにいない『若造』への怒りに全身を震わせた。
「何が名門ライザード家の若き当主、史上最年少の騎士団長か! 家柄が良いだけの、貴族社会の序列も知らぬひよっこめがっ!!」
 カイゼル・ジェスティ・ライザード。それこそが、メルーシャを始めとした『伝統的な価値観を重んじる由緒正しい』貴族が言うところの、不逞な秩序の壊乱者だった。
 皇祖の覇業に尽力して少なからぬ功績を残し、その後も門閥家の筆頭として数々の騎士団長、軍務長官などと輩出してきた武門の名家、ライザードの当主。帝国軍の総称であるエルカベル騎士団を実質的に統括する、軍務長官と並ぶ軍部の最高権力者。若干二十七歳にして、どちらかというと影の薄かった亡き父を遥かに凌ぐ才気を覇気を示す、現在何よりの出世頭と目される存在。これらの豪華すぎる肩書きと世評を抱え込み、傲然と貴族社会を渡り歩く青年を、当然のことながら周囲の老獪な貴族たちは疎んでいた。彼を亡き者とするための襲撃が、ほとんど公然と、しかも日常的に行われているほどに。
 だが、それでもカイゼルは今まで生き残ってきた。それも、ただ生き残っているだけではない。常に襲撃者にしたたかな反撃を加え、場合によっては相手を皆殺しにし、敵の数を減らしながら自身を守ってきたのだ。
 今メルーシャが怒りに打ち震えているのも、わざわざ己の管轄域を使ってまで高位の魔術師を差し向けたというのに、屋敷にやって来たのは勝利の報告ではなく暗殺しようとした本人だったからだ。カイゼルは徒歩で悠然と典令省の門をくぐり、目的を果たした後は長居をすることもなく、最低限の礼節を守っただけで立ち去って行った。その余裕がまた、メルーシャの癇に障って仕方がない。
「平民の身分を買いたいなど、そんな理由だけで彼奴がここへ訪れるものかっ! 何か必ず、彼奴めは帝国に仇なすようなことを企んでいるに違いないのだ!!」
「……まさか、そのようなことが」
 思わずディプスは呟いたが、メルーシャにはほとんど聞こえていなかった。
 カイゼルの訪問の用件は、新しく雇った少年の身分を買いたい、というものだった。それ自体はさしておかしいことでもない。奴隷の身分から、貴族に気に入られて『解放平民:』になる者は、多いとは言い難いが確かに存在する。そうではなくとも、身元の分からぬ者が貴族の傍仕えになるのは弊害があるため、ただ体裁を整えるためだけに身分の売買は行われているのである。
 だが、たかが少年一人の身分を買うためにカイゼルが単身赴いてくるなど、メルーシャにとってはありえないことだった。それには多分に偏見が含まれているものの、事実とさして異ならない。大将軍の地位を持つ、軍部の『統帥』たるあの青年は、純粋な親切心で動くような心優しい存在ではないのだから。
「…………しかも」
 ぎらりと、メルーシャの両目が底の見えない光を宿した。
 カイゼルが典令省管轄の領域に入った、という報告がもたらされたその直後に、メルーシャはすぐ近くで爆発した、魔力を跳ね飛ばすすさまじい力を感じ取ったのだった。気づいたのはメルーシャだけではない。省で働く者のほぼすべてが、魔力の波動を掻き消しながら一切の魔力を感じさせない、ありえないはずの力を感じ取っていた。
 それがただの気のせいであるはずがなかった。
「凶兆だ……必ず、カイゼルめが一枚噛んでいるに違いない。あの若造が、平地に乱を起こす真似をしでかそうとしているのだ」
「……長官、メルーシャ卿」
「そうだ、そうに違いない。……だが、そうはいくものか」
「……」
 すでに口も挟むことができないディプスを他所に、メルーシャの灰色の双眸がかすかな笑みに細められた。それは見る者の背筋を寒くさせずにはいられない、どこか爬虫類を思わせる冷たい微笑だった。
 戦慄に体を硬くする侍従の青年へ、メルーシャは奇妙な喜悦の混じった瞳を向けた。
「ディプス」
「―――――は」
 我に返ってディプスが頭を垂れると、メルーシャは喉の奥で引きつったような笑い声を立てた。
「ディプス、良いか。カイゼルめが平民の身分を買い取っていった少年を調べさせるのだ」
「少年を、にございますか」
「そうだ。あの若造がわざわざ身分を買った少年が、ただの小僧であるわけがなかろう。それにあの奇妙な現象だ。関わりがないはずがあるまい」
 メルーシャがそう考えたのはカイゼルへの反感と、曲折した敵意の結果だったが、正確に真実を捉えてもいた。
 御意、と頭を上げるディプスを手を振って下がらせ、メルーシャは卓上に所在なさげに立ったままの酒盃に手を伸ばした。そこで初めて、袖口に散った赤い染みに気づいたように眉を寄せる。
 そのまま、平民が数年に一度呑むことが出来るか否か、という赤葡萄酒を呷り、空になった杯を無造作に放り投げた。銀で出来たそれは陶器のように割れることなく、毛足の長い暗紅色の絨毯の上に転がっていく。ころころと、まるで持ち主であるメルーシャから離れようとしているように。
「ふん」
 それを細めた瞳で眺めやり、メルーシャは酒に濡れた唇を舌先で舐めた。それがにたりと笑みを刻むのを見た者はいなかったが、もしいたなら侍従であるディプスのように戦慄していたであろう。
 それはすでに、狂気の狭間に足を踏み入れている者の笑みだった。
「貴様の思い通りになどさせるものか。決して、させはせぬよ……カイゼル・ジェスティ・ライザード」
 独白は不吉な響きだけを道連れに、月明かりの差し込む部屋に霧散していった。




 低く、高く、遠く、近く、どこかで不思議な旋律の音楽が響いていた。
 胸が掻きむしられるほど悲しく、だが不思議と優しいその音色に、シオンは導かれるようにして重い瞼を持ち上げた。いつまでもまどろんでいたいほど体が重かったが、何故か起きなければならない、という強い思いに駆られ、眠りの中をたゆたっていたシオンの意識は現実世界に引き戻されたのだ。
 そして次の瞬間、シオンは思わず呼吸を止めて瞳を見開いた。
「……カ」
 カイゼル様、と呟きかけて、シオンは声がうまく出せないことに気がついた。喉がひりつき、猛烈な勢いで渇きを訴えている。中途半端に口を空けたまま顔を歪めたシオンに、寝台の端に腰掛けていたカイゼルは軽く眉をひそめた。
「何だ、水か?」
 面倒くさそうにかけられた低い声音に、シオンは懸命に頷くことで同意を示した。それを深い青の瞳で見やり、カイゼルは広々とした寝台から立ち上がると、脇に備えつけられた小卓に置かれた水差しを手に取る。お世辞にも丁寧とは言い難い動作でそれを陶器の杯に注ぎ、寝台に上半身を起こしたシオンに突き出した。
「俺に水を取らせるとはいい度胸だな、お前は」
 そんな呆れたような呟きに答える余裕もなく、シオンは出来る限り遠慮がちに、だが同時にかなりの勢いでそれを受け取って口をつけた。
 一気に体の中を冷水が滑っていく感触は、寝起きの乾いた喉に何よりも心地よかった。両手で抱えるほどの銀杯に満たされた水を飲み干し、ようやくシオンの頭にまとも思考能力が戻ってくる。
 一つ息をつくと、何とか周囲の様子を確認しようという意識も生まれた。とにかく頭がぼんやりとし、いつもは働いているはずの脳細胞が反乱を起こしているように感じる。
 シオンが寝ていたのは、ライザード家に用意された彼の部屋だった。カイゼルなどの自室とは比べるべくもないが、それでも東京に構えられた自宅の部屋の優に三倍はある室内に、シオンが三人寝てもまだ余裕がありそうな寝台が置かれている。壁際の燭台には、この魔力に満ちた世界特有の柔らかな白光が灯り、窓の外から侵入しようとする夜の闇を払っていた。
 そこで初めて周囲の暗さに気づき、シオンはさっと顔色を変えた。大きな窓から外を見やれば、いつの間にかそこにいたはずの太陽が姿をくらまし、大きな銀青の月が夜空の支配者となっている。
「…………あ」
 シオンの脳裏に、曖昧だった記憶が波濤となって押し寄せてきた。
 倒れてきた輿の影から飛び出し、奴隷の男を背中に庇ったところで、シオンの記憶はぶつりと途切れていた。本来なら、そこで永遠に途切れたまま再生されることはないはずだった。シオンは破壊のための力の凝りに、無防備に己の体を晒したのだから。
 そうであるにも関わらず、シオンはこうして生きていた。カイゼルの命令に背き、じっと隠れていることを拒否して、死の前に自ら飛び出していったというのに。
 次の瞬間、シオンの顔に恐怖の色が広がった。今になって死を実感したため、ではない。黙ってその様子を見つめていたカイゼルが、訝しげな表情を見せておい、と声をかけるのを半ば遮り、シオンは前触れなく寝台の上で頭を下げた。
「……申し訳ありませんっ!」
「あ?」
 カイゼルは形の良い眉を思い切りひそめた。それも当然のことだと言えるだろう。目覚めてから今まで、どことなくぼんやりとした様子で周囲を見回していた少年が、いきなり血相を変えて謝罪してきたのだから。
 だが、シオンはそんなカイゼルの反応にも気づかぬように、きつく瞳を閉ざして上かけの布を握り締めていた。
 自分の行動に対する後悔はなかったが、それによってカイゼルが被った迷惑を思うと、シオンは発作的にこの場から逃げ出したくなった。もちろん、いざという時にシオンの命に拘るようなカイゼルではないだろうが、それでも自分から彼の弱点になるような真似は慎むべきだったのだ。
 これからもこの世界で生きていくというならば。
「本当に申し訳ありません、ご迷惑を……っ。命令に、背こうと思ったわけじゃないんです。ただ、助けてくれという声が聞こえて。見捨てるのが、嫌で」
「おい」
「カイゼル様に面倒をかけるつもりじゃ……本当に申し訳ありません!」
 彼が今も生きているのはカイゼルが助けたためだろうと、シオンは当然のように思った。何故だかはわからなかったが、それ以外には考えられない。そしてそうであるなら、恐らくカイゼルはシオンのために余計な労力を使うはめになっただろう。
 それが嫌だった。
 拾ってもらえた早々、迷惑をかけた自分に信じられないほど腹が立った。
 彼は自分などに煩わされていい存在ではないというのに。
「……本当に、申し訳ありません……っ!」
 ぎゅっと強く目を瞑って同じ言葉を繰り返すシオンに、カイゼルはあっけに取られた表情で沈黙していた。それを怒りだと取り、シオンはますます体を小さくする。なぜここまでカイゼルの怒りが恐ろしいのかはかわらなかったが、この世界で生きていくためには彼の傍にいなければならないのだという、あまりにも自然な確信だけがあった。
 絹で織られた上かけを手繰り寄せるようにして、シオンはさらに謝罪の言葉をつのろうとした。再び喉までせり上がった言葉は、だが突然大きな手に額をつかまれて顔を上げされられ、音になる前に霧散して消えてしまう。
「……カイゼル様?」
 ぎょっとしたように呟きながら、それでも瞳は伏せたままシオンに、カイゼルは噛んで含めるようにゆっくりと声を押し出した。
「少し黙れ、そして落ち着け。何なんだ、お前は? 何をさっきから一人で騒いで謝ってるんだ」
 カイゼルの言葉は低く、呆れが強く滲んだものだったが、そこには怒りは込められていないようだった。ただ苛立ちは多く含まれており、シオンはビクッと体をすくませる。
「あ、あの」
「言いたいことがあるならはっきり言え。要領を得ないことをわめくな、鬱陶しいだろうが」
 宵の頃の空を思わせる深青の瞳に見据えられ、シオンの心臓が大きく飛び跳ねた。目を瞑ったままでもわかるような、抜き身の剣を思わせる鋭い光だ。
 必死に呼吸を整え、その眼光に切り伏せられてしまわないよう、シオンはそろそろと伏せていた瞼を持ち上げた。湖のような碧の瞳を何とか真っ直ぐに上げ、なるべくしっかりとした言葉になるように言葉を紡ぐ。
 とにかく謝らなければならない、という強迫観念は、怒りというより呆れのこもった深青の瞳を見た瞬間薄れて消えた。それでも謝罪しないわけにはいかない。すぅっと小さく息を吸って、シオンは声が震えないように喉に力を込めた。
「……足手まといになってしまって、申し訳ありませんでした」
「それだけか?」
「あの……それから、命令に、背いてしまって」
「で?」
「…………助けて下さって、その、ありがとうございました」
 カイゼルに促されるまま、シオンはたどたどしく言葉を繋いだ。答えながら、その碧の瞳には困惑の光がちらついている。カイゼルの態度に全くといっていいほど怒気が見えないからだ。この強く、決して揺るがない闘神のような青年将軍は、足手まといになるような弱者は嫌いだろうと思っていた。そしてシオンは間違いようもなく足手まといだ。
 そんなシオンの困惑に、カイゼルはますます訝しげな表情を作った。
「覚えてないのか?」
「…………は?」 
 思わず間の抜けた声を上げるシオンを見下ろし、カイゼルはその額を押さえていた手を離した。
「覚えてないのか、と聞いたんだ。言っておくが、俺がお前を助けたわけじゃない。お前が自分で襲撃者どもの魔力を『消して』みせたんだろうが」
「…………え」
「何だ、まったく覚えてないのか? 面倒くさいヤツだな、お前は」
「…………」
 人間、あまりにも突拍子もないことを言われると、瞬間的に言語中枢が職務放棄を起こしてしまう。軽く眉を寄せたまま腕を組むカイゼルをぽかん、と見つめたまま、シオンは今言われた内容を脳内で反芻してみた。
 魔力を、消した。
 それはつまり、相手の魔術を言葉通り『消して』しまったということだろうか。
 襲撃者の魔力を消して、自分の身を、自分で守ったということだろうか。
 現象としては理解できるような気がするが、それがどうして自分と結びつくというのだろう。
 特殊な力を持った光の勇者が、異世界に召喚されてその世界を救う。物語の世界ならば、それですべて説明がつく。だが、シオンは伝説に謳われる光の勇者でもなければ、特別な力を持った『選ばれた存在』でもなかった。ごく普通の高校生なのだ。
 呆然としてカイゼルを見上げるシオンに、榛色の髪を持った青年はふと、何かを思い出したような顔を作った。どこか悪戯めいた鋭い笑みに精悍な面差しを彩らせ、さらりと、シオンに向かって爆弾を投げつけてみせる。
 何でもない事柄を告げるようにして。
「そういえば、お前は異界から来たんだってな。シオン」
 その言葉を、思考能力が鈍った脳が受け止めて認識した瞬間。
 シオンは今度こそ完全に言葉を失い、ただ碧の瞳を限界まで見開いた。






    



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