14 夜のない城


 


 シェインディアの庭園から屋敷内の一室へと移動し、シオンは改めて三人の騎士たちを話とすることとなった。
 双子はセレニアと共に中庭に残ったため、ここには騎士たちとシオン、そしてカイゼルの五人しかいなかった。それでもシオンがさして緊張しなくて済んだのは、三人の中でも特にリチェルとグラウドと名乗った二人が、世間話でもするような気軽さで話しかけてくれたためだろう。
「…………はい?」
 シルーシャ葉、という葉から淹れた透きとおる琥珀色の茶が、シオンが首を傾げた拍子にカップの縁から零れ落ちそうになった。だが、シオンはそれにも気づかない様子で、眼前でにこにこと笑いながらお茶菓子をつまんでいる少年を見つめ返す。今聞いた内容が良く聞き取れなかったためだ。
「あの、申し訳ありません。今何と……?」
「だから、シオンは私がいくつくらいの年だと思う? と聞いたんだよ」
「あ、それは……十五、六くらい、に見えますが」
 シオンは訝しげな表情を作りつつ、失礼にならないように慎重に答えた。聞き取れなかったのはそこではないのだが、と思いながら。
 そんなシオンの様子を実に愉快そうに眺め、リチェルは苺に良く似た果実を口の中に放り込んでから、悪戯めいた微笑と共に軽く頷いてみせた。
「だろうな……が、私の実際の年齢は、君もよく知っているあのセスティアルと同い年なんだよ、と言ったんだ」
 今度は聞き取れたかい、と楽しげに笑うリチェルに、聞き間違いではないと悟ったシオンは大きく瞳を見開いた。聞いた話では、黒髪に銀青の瞳を持った美貌の魔術師は、確か今年で二十四になっているはずだった。どこをどう見ても、シオンよりさらに身長が低く顔立ちも幼いリチェルと同い年には見えない。隣に座ったグラウドなどとは、年の近い親子と言っても通用しそうなほどなのだ。愕然としてカップを持ったまま固まるシオンに、茶髪の騎士は卓上に頬杖をつきながら気の毒そうな表情を作った。
「あーあ、ほら見ろ、突然変なこと教えるから固まっちまってんじゃねぇか。大丈夫かシオン坊? 心配すんな、こいつはちょっと体内の魔術がおかしくて成長が止まっちまってるだけだから」
「……え?」
「私が『レイター』の称号を持つ魔術師だ、というのはさっき話した通りだ。それは普通に名誉なことなんだが……まあ何ていうか、その大きな魔力のせいで肉体の老化が遅くなってしまったようでな。こんな年齢のままで体が成長を止めてしまったんだ」
「そゆこと。まあつまり、究極の若作りってヤツだな」
「ふん、羨ましいか」
「……んなわけあるか!」
 途中からやや脱線の様相を呈してきた会話を聞きながら、シオンは有り得ない事実に呆然としていた。もしそれが本当なら、世の女性たちは目の色と血相を変えてその秘密を探りに来るだろう。劇団に所属し、女優と呼ばれる女性たちを多く見てきたシオンは、彼女たちが『永遠の若さと美貌』を得るためにどれだけ苦労しているか知っていた。
(でも、その原因が魔力じゃ駄目だろうな……)
 今までいた世界では考えられない事実に直面して、シオンが真っ先に考えたのはそんなことだった。だいぶ順応してきたと言えるだろう。混乱した挙句、突きつけられた現実を否定するようなことはなかった。
 そこまで考えて、ふと、思い当たった事実にシオンは瞳を瞬かせた。
「あの、それじゃあ……」
 ひょっとしてセスティアル様もですか、とためらいがちに問いかけたのは、あの青年ならば実年齢が何歳でもさして違和感がないように感じたからだ。だが、あのあらゆる美女たちが裸足で逃げ出すような美貌で、実際は五十を過ぎていたりしたらかなりの衝撃である。好奇心とかすかな恐怖に瞳を彩らせたシオンに、リチェルはすぐに答えようとはしなかった。
 一瞬困ったような、柔らかな笑みにも苦笑にも見える表情を過ぎらせ、ほんのわずかに首を傾げてみせたのだ。
「彼は外見のままだ。彼は……セスは、その身に宿った魔力さえ完璧に制御してしまう、『特別』なレイターだから」
 それは不思議な言い回しだったが、リチェルとグラウドの表情から、それ以上聞いてはならないことなのだと悟った。すぐにすみません、ぶしつけなことを聞いて、と頭を下げるシオンに、曖昧な笑みを浮かべていたリチェルがくすくすと笑い声を響かせる。フィオラとシェラナが純粋な神の御使いだとしたら、リチェルは叡智を持って神を補佐する智天使のようだった。
「君は本当に良い子だな、シオン。団長が奴隷として売り飛ばさず、傍に置いて侍従にしたのも頷ける」
 裏のない優しい言葉をかけられ、自然にシオンの口元にも笑みが浮かんだ。カイゼルがシオンを侍従にしたのは、彼がこの世界の住人ではないという特殊性を持つゆえだが、そうだと分かっていてもリチェルの言葉が嬉しかった。
 かなり打ち解けた様子で会話に興じるシオンを見やり、カイゼルが直々に行ったコーラリアの軍事訓練について質問していたジェインは、ふっと引き結ばれていた唇を笑みの形に綻ばせた。
「何だ、ジェイン?」
「いえ。こうして我らにまで引き合わせられるとは、団長は随分あの少年を気に入っておられるのだな、と」
 生真面目な隻眼の騎士の言葉に、意外にもカイゼルはすんなりと頷いた。シルーシャ葉の茶を惚れ惚れするような動作で飲み干して、カップを卓上に戻しながら低く笑う。
「ああ、あれは中々面白い。セスにも言ったが、あいつがいるとしばらくは退屈しなくてすみそうだ」
 それが、カイゼルにとって最大級に好意的な評価だと知るジェインは、ひとつだけ開かれた深緑の瞳を細めてそっとシオンに視線をやった。やや離れた位置に座る少年は、繊細な面差しに控えめな表情を浮かべ、時折小さく笑い声を立てている。実に好感の持てる少年だが、それだけでカイゼルが手元に置くとは思えなかった。何か、彼らには想像もつかないような理由があるのだろう。だがジェインは、カイゼルから告げられるまでは一切詮索するつもりはなかった。
「そういえば団長、セスティアルはどうなされた?」
 話題を変える目的で、ジェインは不意に気づいたことを口の端の乗せた。常にカイゼルの屋敷に当直し、その身辺を守っているあの『最強』のレイターが、外出するカイゼルに付き従っていないのは珍しいことだった。何かあったのか、という疑問を込めたジェインの視線に、カイゼルは軽く頷いて窓の外に深青色の瞳を向けた。
「セスは所用でな。ちょっとばかり皇宮に伺候させた」
「皇宮……スティルヴィーアにですか」
 スティルヴィーア、すなわり不夜城を意味する皇宮は、エルカベル帝国帝都エリダの中央に構えられ、神聖不可侵の皇帝が住まう居住であると同時に、いくつもの省を統括する政務の中枢であった。魔術が最高のものを見なされる世界で、最高位魔術『レイター』の地位は限りなく高い。そのレイターであるセスティアルならば、大貴族にも匹敵する優先順位で皇宮に入れるだろう。だが、セスティアル個人が『所用』で皇宮を訪れる理由があるとは考えられなかった。少なくとも戦の前ではなく、重大な問題も持ち上がっていない今は。
 だからこそ疑問に思う様子のジェインを横目で見遣って、カイゼルは鋭く笑いながらさらりと言ってみせた。
「不夜城に伺候……わかりやすく言えば『偵察』に行かせた。まあ、俺が行く前の敵情視察だ」
「……それは」
「最近、俺の周囲を嗅ぎ回っている鼠がいるんでな。放っておいてもさしたる害はないが、あんまりちょろちょろされるのも鬱陶しい」
 だからそろそろ叩き潰す準備だ、と簡単に呟いて、カイゼルは再び、広々とした露台へと続く扉型の窓から鋭い視線を放った。風にさわさわ…と揺れる梢の向こう、肉眼では決して捉えることができないはずの遠くへと。
 途端に慌てたように離れていく気配を、カイゼルと騎士たちは鋭敏に研ぎ澄まされた感覚の隅に捉えていたが、あえて今動こうとはしなかった。
 放っておいてもさしたる害はない、といった、カイゼルの言葉をそのまま体現するように。
 



 薄紫のマントを風に遊ばせ、長い艶やかな黒髪をその上に流したセスティアルの姿は、皇宮の豪奢で荘厳な調度の中にあっても埋没してしまうことはなかった。
 魔力によって常に淡く輝く床を踏み、完璧な動作で謁見の間を後にしたセスティアルに、男性女性問わずにいくつも視線が集中した。男性のそれは敬意と同等の警戒で、女性のそれは情感豊かな熱いものだった。そのすべてを飄々として受け流してしまうと、美貌の魔術師は中庭に面した広大な回廊に足を踏み入れた。
 風がふわりと行き過ぎ、星月夜そのものの髪を音もなく揺らしていく。
「……おや」
 月を思わせる青みがかった銀の瞳が、そこに立つ人影を認めて軽く見張られた。
 だがそれはすぐに柔らかに細められ、完璧な形を誇る唇がひどく優しい笑みを刻む。
「珍しいところで、珍しい方にお会いしましたね」
「セスティアル卿か」
 セスティアルの言葉に、回廊に立って静かに庭園を眺めていた人物が振り返り、声の主を認めてそっと笑みを浮かべた。
 紫のマントはセスティアルと同じ第一位階の騎士の証だが、珍しいことに、それをまとっているのは男性ではなく女性だった。無造作に一つに括られた髪はセスティアルと同じ漆黒で、瞳は鮮烈な翠緑玉の色を湛えている。細身であるとはいえ、紛うことなく男性であるセスティアルと比べてもなんら遜色のない、堂々たる長身としなやかな筋肉の存在を印象づける大柄な美女だった。皇宮に伺候する者の決まりとして帯剣はしていないが、戦場で馬を駆って剣を振るえばさぞ美しいだろうと思わせる、淑女というよりは戦女神のような雰囲気を漂わせている。
「珍しいこともあるものよな、セスティアル卿とこのような場所で会うとは。さては大将軍の命で敵情視察に来たか?」
「あまり間違ってはいませんが、エステラ? 皇宮を指して敵などと言っては不敬の大罪に問われますよ」
「ふん、殊勝なことを。先ほど私と会った瞬間から、周囲を無音の結界で覆ってのけるような男が何を言うか」
「ばれてましたか、これは失敗」
 おどけたように肩をすくめて見せるセスティアルに、エステラと呼ばれた女騎士は心地よさげに低く笑った。
 エステリア・ウィルス・クローバー。門閥家である大貴族のクローバー家の長女にして、女性ながらに騎士団の最高位まで上り詰めた生粋の武人であった。カイゼルが山下の街コーラリアに軍事訓練に行っている間、水上砦シャングレインの視察を任されていたことからも、騎士団内における彼女の地位が伺える。
 その女傑を前にして、セスティアルは銀青の瞳を細めながらくすくすと笑い声を立てた。そのまま隣に並んで庭園に視線をやり、友人同士の会話のような気安さで再び口を開く。
「……あそこに咲いているのは『朝靄の露』ですか。さすが皇宮の庭園だけあって、ここはいつまでも変わらなく綺麗で、優美ですね」
「そうだな、あの日から……」
 そこでふとためらうように口をつぐんで、エステラは翠玉の瞳をかすかに眇める。セスティアルはそれに気づいたようだったが、それでも無言でその言葉が続くのを待っていた。結局、降りた沈黙の不自然さを嫌ったのか、エステラ隣に立つ同僚を見やりながら静かに続けた。
 探るようにというよりは、何かを確かめるようにして。
「あの八年前の日から、お主の皇帝ではなく大将軍に誓った忠誠は揺るがぬのか?」
「異なことを」
 それに対するセスティアルの答えは、あまりにも簡潔だった。
「当然でしょう、エステラ。レイターは、一度捧げた忠誠と誓いを覆したりはしませんよ?」
 たとえ死してもね、と言って微笑むセスティアルの表情は、一瞬前と何も変わらずに優しいものだ。だが同時に強靭で、揺ぎないものでもあった。
 銀青の瞳が庭園に流れ、淡く黄色を帯びた白い薔薇のアーチを認めてふっと揺れる。
 風に舞う花びらも葉も、八年前と何も変わらず美しいものだった。
 そこに漂う甘い香りさえも。




 長い黒髪をさらさらと揺らした少年が、薔薇が作るアーチの下をゆっくりと歩いている。
 むせ返るような甘い香りに時折瞳を細めて、それでも唇には静かな笑みを刻みながら。
『……おい』
 不意に低い声音で呼びかけられて、黒髪の少年は素直に立ち止まった。アーチの下で腕を組み、風に紫のマントを翻して立つ青年の姿を視界に収めると、心から嬉しそうに笑って足早に歩み寄る。風が花の香りを巻き上げながら吹き抜け、少年の長い髪と青年の焔のような髪を宙へ散らした。
『申し訳ありません、お待たせいたしました、…………卿』
 そう言って優雅に微笑む少年に、青年はああ、と倣岸な態度で頷いて見せた。まだ二十歳前後にしか見えない若さだが、不思議と青年にはそのような態度が良く似合った。
 そんなことを思って誇らしげに笑う少年の頬には、アーチを作った薄黄色の薔薇とは違う、鮮やかな深紅の花びらが小さく散っていた。それは頬だけでなく白い首筋、精緻な刺繍の施された襟元、そして彫刻を思わせるほっそりとした手にも飛び散り、白磁の肌に妖しく映えている。だが少年も青年も気にした様子はなく、紅の花びらは拭い去られて消えることもなかった。
 ゆったりと微笑んで立つ少年を見下ろして、青年も小さく笑みを過ぎらせた。剣の切っ先のように鋭い笑みだ。そして発せられた言葉も、簡潔な響きの中で容赦なく決断を迫るものだった。
 王者のように。
 それが当然の権利だとでもいうように。
『――――来るか?』
 それは手を差し伸べることさえしないで、傲然と告げられた言葉だった。
『はい』
 けれど少年の答えも簡単なものだった。にこりと笑って頷き、まとったマントを片手で払ってその足元に膝をつくと、青年に向かって真摯に告げたのである。
 すべてを決めた者の口調で。
『…………卿。いえ、我が君』
 貴方に永劫の忠誠をお誓い申し上げます、と。
 あの、赤い花びらが何枚も散った日に。
 甘い香りがむせるほど強かった、あの日に。
 誓いの言葉は告げられた。




「……それに、私ほど強固に我が君に対して忠誠を誓っている人がいると思いますか?」
 悪戯めいた口調でそう告げたセスティアルに、エステラはいないな、と肩をすくめて笑って見せた。一瞬だけ見せた遠くを見るような眼差しは消え、青みがかった銀の瞳には捉えどころのない光が戻ってきている。それに、エステラは何故か安堵した。
 ね、そうでしょう、と笑いながらささやくと、セスティアルはすいと手を伸ばして、風に攫われながら舞い落ちてきた花びらを受け止めた。赤く染まってはいない、太陽の光にも似た薄い黄色の花びらを。
 それに軽く口づけて風に流し、セスティアルは涼やかに響く声で誰にともなくささやいた。
「そう。すべては我が君のために、ね」
 エステラはそれに無言で頷きながら、セスティアルの手から離れた花びらの行方をじっと追っていた。
 やがて地面に落ちて、草の合間に見えなくなるまで。
 どこか真摯な眼差しで、追い続けていた。






    



inserted by FC2 system