16 誓約を捧ぐ


 


 大将軍カイゼル・ジェスティ・ライザードが侍従のシオンを連れて皇宮に出向いたのは、シェインディアの屋敷で茶会が行われた二日後の早朝だった。
 謁見の理由は簡単で、コーラリアの軍事訓練における最終的な報告と、そこで拾った少年を皇帝に引き合わせるためだった。コーラリアから帰還してこれだけの時間を置き、それからようやく皇宮に伺候するとあって、門閥家の大貴族たちはその増長ぶりに苦虫を噛み潰している。だが、皇帝自身がそのような態度を許容しているせいもあり、表立ってカイゼルを非難するものはいなかった。
「……エルカベル帝国第六十二代皇帝、ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニア陛下、御入来(ごにゅうらい)!」
 帝室の筆頭書記官が朗々とした声で皇帝の入室を告げ、鮮やかな緋色のマントをまとった礼服姿のカイゼルと、その一歩分後ろに控えたシオン、そして謁見の間である『四聖玉の間』に控えた近衛兵や魔術師たちは、見えざる手のひらに押さえつけられたように片膝をついた。ライザード家のものよりさらに上質だと知れる深紅の絨毯を見つめながら、シオンの心臓は忙しくその音を主張し始める。すぐ前に跪いたカイゼルの堂々たる後姿がなければ、今すぐに声を上げて逃げ帰りたいほどには緊張していた。
 そもそも、皇宮に伺候すること自体が突発的な出来事だったのだ。
「皇宮に行くぞ、お前も来い」
 あっさりとそう言ったカイゼルに対し、この時ほど返答が困難だったことはなかった。だが、シオンがカイゼルに逆らうことなどできるはずもなく、こうして四聖玉の間で爆発しそうな心臓を懸命に抑えながら、それを表に出すまいと努めることになったのである。
 教えられた通りにゆっくりと五秒数え、無礼にならないように静かに顔を上げると、空白だった玉座にはその主人の姿が収まっていた。
「久しいな、カイゼル・ジェスティ・ライザード」
 簡潔に告げられたその声も、遠雷の轟きかと思うほど低く、体の奥にズシリと響くものだった。
 座っていてもわかる十分な身長と体格、翳りを帯びた暗い金髪に、泰然とした笑みに細められた濃い蒼の双眸。うっすらと皺の刻まれた顔に整えられた顎髭をたくわえ、骨ばった大きな手を玉座の肘かけに自然に添えた、紛うことなき『皇帝』の姿がそこにあった。
 短いきざはしの上に構えられた玉座で、皇帝はカイゼルを見下ろしながらゆったりと笑った。
「こうして卿の顔を見るのも随分と久しいことよ。大将軍は多忙の身を理由に、最近は予さえも歯牙にかけぬほどに増長しておるのだ、と忠実なる臣たちは言っておるが、卿が長く伺候しなかった理由はまことに増長ゆえか? ライザード大将軍」
「恐れながら陛下。それはお戯れのお言葉にござましょう」
「ほう、なにゆえに?」
「聡明なる陛下がその程度の戯言、容れるはずがございませんゆえ」
 一切の気負いも追従もないカイゼルの返答に、ヴァルロは喉の奥で小さく笑い声を立てた。聡明なる陛下、という響きが、彼の腹心であるレイターの青年と似通っていたためだ。よく似た主従よ、と口の中だけで呟き、どこかカイゼルと似た色合いの瞳が、エルカベル騎士団の騎士団長とその侍従の少年を楽しげに眺めやった。
 それだけで、シオンは背に冷たい汗が伝うのを自覚した。カイゼルと皇帝のやり取りは、一見すると遠慮のない臣下と主君の会話のようだったが、その実は喉元に剣を突きつけあうような音のない戦いだった。何故かシオンはそう思った。カイゼルの態度と口調に、皇帝に対する忠誠がまるで感じられない、というだけではない。向けられた皇帝の瞳も、ただの臣下を見るものではなかった。
 それは、対等に限りなく近い存在を見る眼差しだった。
 強く絨毯の上についた手を握り、頭上から押しかかる圧迫感に耐えるシオンに、ふと流れた皇帝の視線が注がれた。
「シオン・ミズセといったか」
 ドクンッと音を立ててシオンの心臓が跳ねた。皇帝に悟られないほどの短い一瞬の間に、カイゼルが舌打ちしたそうな表情を閃かせる。シオンに直接皇帝と会話させるつもりはなかったからだ。魔力を持たないシオンに、世界でも最高の血を色濃く継いだ皇帝の眼光は強すぎる。だが、カイゼルに口を挟むだけの間を与えず、皇帝はうっすらと微笑を滲ませながら言葉を続けた。
「顔を上げよ、シオン・ミズセ。ライザード卿がコーラリアで拾い、侍従にしたという少年はそなたか」
「……御意でございます。皇帝陛下」
 言われた通りに顔を上げ、シオンは声が震えないように細心の注意を払いながら口を開いた。
「ふむ、そうか。なかなかよい顔立ちをしている。故郷は何処か?」
「生まれは北方の交易都市、カロナの郊外です」
「それが人買いに攫われたと?」
「はい、危ないところをライザード大将軍に救っていただきました」
 シオンがこれだけ滑らかな受け答えができたのは、ウィルザスの徹底した教育もさることながら、いざ口を開いてしまえば度胸が据わる性分のためだった。そうでなければ舞台に立って演劇などやっていられない。真っ直ぐすぎず、だが逸らしているわけでもない視線の強さで見上げてくるシオンに、皇帝はますます楽しげな笑みを過ぎらせた。
「そうか。それはよい相手に拾われたものよな。ライザード卿は実に部下に慕われる騎士団長ゆえ」
「……はい」
「そしてそなたもライザード卿に忠義を尽くすのだな、シオン・ミズセ?」
「……」
 戯れのような皇帝の言葉を受け、シオンは思わず沈黙した。カイゼルもすっと深青色の瞳を細める。皇帝の御前にあって、別の存在に忠誠を尽くすのか、という質問は、深読みしようとすればいくらでも出来るほどに際どいものだったからだ。
「どうした、何を黙る? 答えてみせよ」
 何かを試すような皇帝の口調に、シオンは途方に暮れたようにしてカイゼルを見やった。下手な答えを返しては、自分が不興を買うのみならず、主君であるカイゼルの責任が問われかねないからだ。だが、カイゼルはほんのわずかに唇をゆがめ、何より静かな眼差しのみを返してきた。それは思うように答えてみろ、と告げる、淡々としながらシオンの背を押すような視線だった。
 たったそれだけのことで、シオンの中から躊躇いは消えた。
 自分でも不思議なほどに、波立っていた精神が凪いでいくのを感じることが出来た。
「もちろんでございます、陛下」
 すっと真っ直ぐに顔を上げ、シオンは媚びにならない程度にささやかな、同時に芯の強さを伺わせる微笑を浮かべてみせた。
 カイゼルのためになる答えを。
 それだけを思いながら。
「非才なる私の忠誠は、恐れながら陛下の忠実なる臣下であらせられる、カイゼル・ジェスティ・ライザード大将軍に捧げたく思います」
 それはすなわち皇帝への忠誠でもあると、そう言外に告げる答えだった。
 皇帝はほんのかすかに目を見張ると、心から楽しそうに哄笑した。やや意外そうに眉を上げるカイゼルに、彼のものよりわずかに暗くくすんだ色の瞳が向けられる。肘かけに軽くもたれるようにして笑いながら、ヴァルロはゆったりと頬杖をついてライザード卿よ、と呼びかけた。
「ライザード卿、帝国最大の騎士団長よ。やはりそなたはよい部下に恵まれるな」
「ありがたき御諚(ごじょう)、もったいなく存じます」
「それもまた、上に立つ者になりより要求される資質よ。卿の資質は予をも軽く上回るようだ」
 あまりにもさらりと投げつけられた言葉の爆弾に、シオンだけでなく、皇帝の背後に控えていた侍従の青年たちや壁際に控えた護衛、帝室の筆頭書記官までもが呼吸を止めた。ただカイゼルだけが悠然と微笑し、お戯れをおっしゃられる、と鋭く言い切ってみせた。皇帝とカイゼルの眼差しが一瞬ぶつかり、シオンは全身にまといつく冷たい空気の存在を自覚する。だが、先に視線を逸らしたのは皇帝の方で、魔力によって時間を刻んでいる水晶時計に軽く視線をやってから、ふっとかすかに微笑んだ。今日はこれまでだ、というように。
「……どうやらもう時間のようだ。これ以上待たせては、控えの間で待つ大貴族の当主らがまた騒ぎ出すであろうからな」
 暗い色調の金髪を揺らしてゆるく首を振り、ヴァルロは深い眼差しで階下の二人を見下ろした。
「ではシオン・ミズセよ、今日より一層の忠誠をライザード卿に尽くすがよい」
「……はい、御意でございます陛下」
「ライザード卿、コーラリアでの最終報告は軍務長官の方より書類を受け取るゆえ、後のことは長官に任せてよかろう。この度の任務もご苦労であった、以後もこのような働きを期待しておるぞ」
「御意」
 その簡単な皇帝の言葉をもって、シオンや護衛の者たちの神経をすり減らした謁見は終わりを告げた。
 張り詰めた空気が緩んだのを感じ、シオンはようやく肩の力を抜くことが出来た。それは皇帝の侍従も同じだったようで、奇しくも謁見の間にいくつかの溜息が零される。それほど息が詰まるような時間が流れていたということだろう。
 やはりカイゼルは、その他の臣下たちとは違うのだ。
 そんな確信を誰の胸にも抱かせ、四聖玉の間の扉は静かに閉ざされていった。




 四聖玉の間を辞してから、シオンは思わずその場に崩れ落ちそうになった。
 このように緊張したことなど、十七年間生きていて初めてのことだった。そしてそれも当然のことだといえるだろう。シオンが生きていた日本という国には、神聖不可侵にして絶対の皇帝など存在せず、それを相対する緊張などとは無縁の世界なのだから。
「……あ、カイゼル様っ……」
 何かを思い出したようにバッと顔を上げ、シオンは隣に傲然と立ったカイゼルを振り仰いだ。あれでよかったのか、何かまずいことを言わなかったか尋ねようとしたのだ。だがシオンは口を開く前に、突然カイゼルの指に額を強打されてよろめくことになった。
「――――っ!? えっ、え!?」
 予想していなかったところに来た衝撃である、シオンはほとんど涙目になって理不尽な仕打ちをする主君を見上げた。自分は何か、口を滑らせて良くないことを言ってしまったのだろうか、と顔色を変えるシオンに、カイゼルはふんと唇の端を歪めてみせた。
「お前の答えは上出来だった、あれなら皇帝もケチはつけないだろう」
「……本当ですか!?」
「だがな」
 額を押さえたままで顔を輝かせたシオンに、カイゼルは鋭く微笑してその薄茶色の細い髪をくしゃり、とかき回した。
 やや乱暴に。
 だがどこか暖かな仕草で。
「いいかシオン、お前は俺にだけ忠誠を誓っていればいいんだ。他の誰にも膝を屈する必要はない。たとえそれが皇帝でもな」
「……っ、え」
「前に聞いたはずだ、お前はこの先何があっても俺に仕えるか、とな」
 そのままシオンの頭を放して、カイゼルは謁見の間から庭園へと歩き出しながら言い切った。
「お前は俺にだけ仕えていればいい。他の誰でもない、この俺にだ。わかったか、シオン?」
 笑みと共に告げられたのは、十七歳の少年に絶対の誓約を迫る、支配者の言葉だった。
 一瞬だけ驚いたように碧の瞳を瞬かせたが、シオンはすぐに我に返ると急いで主君の後を追った。翻る鮮やかな緋色のマントに必死に追いつき、万感の思いを込めて何度も頷く。
 何故だか嬉しくてたまらなかったのだ。
「はい……はいっ、カイゼル様。僕はカイゼル様だけにお仕え申し上げます。皇帝陛下ではなくて、カイゼル・ジェスティ・ライザード様に」
 思えば皇帝の居住にあって、これほど不敬を極めた発言も少ないだろう。だがシオンは気にも止めず、ただ一人の主君に向かって誓約の言葉を捧げた。以前に忠誠を誓った時より、ずっと強い思いと真情のこもった声音で。
 さっさと先に立って歩き始めていたカイゼルは、小動物のように懸命に追いついてきた少年を見下ろし、ほんのかすかな笑みを口元に閃かせた。
 庭園に面した回廊に出て、吹きつけてくる早朝の風に焔色の髪を遊ばせながら。
「いい答えだ、シオン」
 忘れるなよ、という堂々とした呟きは、皇帝の魔力が何よりも満ちているはずの庭園にあっても揺るぎなく、吹き抜けていく風に運ばれていった。
 


 
「――――――ああ、鍵は揃いつつあるようです、我が王よ」
 どこか遠くで、そんな声が響きわたった。
「舞台はようやく整い、乱の予兆はゆるやかにその姿を現し始める。残る駒は一つ、強大なる鳥は天空を疲れなく飛べもしようが、その他の羽虫には翅を休める場所が必要。……さあ次は、手に入れなければ」
 声はゆるりと微笑の気配を滲ませ、行き過ぎていく風を静かに揺らした。
「鍵は焼き尽くす焔のもとで、やがて老いたる玉座を業火の中に葬り去るだろう。月は二つ、三日月を統べる太陽のもとへ集い来たり、残りの二つは剣に寄する。守り手は別たれて、折れ果てる刃はいかばかりになるか想像もつかぬ。だが、小さな鍵よ」
 ふっと、どこかから呼ばれたような気がして、回廊を歩いていたシオンは高い天井を見上げた。横手に広がる庭園ではなく、遥かな高みから何かが聞こえたような気がしたのだ。だがそこには天井画の描かれた白い面が広がるだけで、当然のこととして誰の姿も見出すことが出来なかった。
「何だ、シオン?」
「……あ、いえ、何でもありません。何か……音? みたいなものが聞こえた気がしたんですけど」
 気のせいでした、と苦笑と共に呟いて、シオンは足早にカイゼルの後を追って歩いた。ただでさえ歩幅が違うのである。少しでも気を抜くと置いていかれてしまうのだ。
 軽い足音を響かせてにシオンが通り過ぎた回廊に、ふわっと柔らかな風が吹いた。
 笑い声によく似た風が、吹き過ぎた。
「鍵よ、呼び招かれた歴史の鍵よ。汝は引き寄せなければならぬ、他でもない、その手で」
 覇者の、王冠を。
 厳重な結界に守られたはずの皇宮に、自然では有り得ないゆるやかな風を巻き起こしながら、声は抜けるような蒼穹に奏でられて消えていった。
 やがて巡り来るその時を、待ち焦がれるようにして。 






    



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