2 信託の剣


 


 常勝不敗の闘神、騎士団長カイゼル・ジェスティ・ライザード大将軍、出陣す。
 この報は瞬く間に帝都中に広がり、不安げな表情を交わし合っていた人々に歓呼の声を上げさせた。カイゼルが指揮した戦で、エルカベル騎士団が敗北を喫したことは一度もない。その事実が人々から不安を拭い去り、すでに事態が解決されたような安堵と歓喜をもたらしたようであった。
「それにしても、トランジスタの総督に任じられていたのはカズイ卿のはず。彼はやや気楽にすぎるところもあるが、有能で視野の広い武人のはずだ。それがここまで大規模な反乱の予兆に気づけなかった、のというのがどうにも解せんな」
 長い銀髪を無造作に括った隻眼の騎士が、もたらされた情報を吟味するように首を傾げた。レイター・リチェル・カーロイスとグラウド・クロスファディの二人が、同感だというように軽く眉を寄せる。次いで発言したのは、黒髪に翠玉の瞳を持った長身の女騎士だった。
「確かに。これはやはり帝国に……それもかなりの権力を有する者の中に、こちらの情報と武器類を流している輩がいると見なすべきか?」
「ええ、そうみて多分間違いはないでしょう」
 柔らかに断じてみせたのは、出陣の際は軍師の役目を担う美貌の魔術師だ。口元に淡く微笑を湛えるセスティアルに、エステラは翠玉の瞳を悪戯っぽく眇めた。
「さて、どうやらセスティアル卿は、すでに内通者の目星がついているようだ。相変わらずの慧眼、恐れ入るとしか言いようがないの」
「そんなことはありませんよ、エステラ」
 内通者の目星がついている、ということに対しての否定とも、慧眼という言葉に対する謙遜とも取れる答えを返しておいて、セスティアルは主君である騎士団長に眼差しを向けた。
「我が君。諸卿の言うとおり内通者がいるとして、我々が出陣するという情報はすでにトランジスタまで伝わったと思われます」
「だろうな。それで、お前の考えは?」
「はい。恐らく反乱勢力は、外壁都市の由来ともなった強固な防壁に拠って我が軍を阻み、その間にジェリーレティアを落とそうと猛攻をかけるでしょう。それは我々にとって望ましくはありません。かと言って、トランジスタの外壁を容易く破壊できるか、と言えば、答えは否です」
 トランジスタは、四方を堅牢な外壁に囲まれた都市である。反乱勢力は、都市の中心に位置する総督府シェリーレティア要塞を攻囲しながら、都市を守る外壁の門を固く閉ざし、外から進軍してくる騎士団を阻もうとするだろう。その攻略に手間取っているうちに、肝心の要塞を落とされてしまっては元も子もない。ジェイン、リチェル、グラウド、エステラ、そして気のない様子で壁に背をもたれさせた小柄な剣士は、総指揮官と軍師の決める方針を無言で待った。
 それに対して、カイゼルの返答は簡潔だった。
「ならやはり、中から開けさせるか」
「御意」
 即座に頷いてふわりと笑ったセスティアルに、会話についていけなかったグラウドが不満げな声を上げた。
「……っておい、セス。団長とお前だけでわかり合うなよ。肉体労働担当にもわかるように説明しろ。つまり、俺らは具体的に何をすればいいんだ?」
「ああ、すみません。グラウド」
 軍議とはいえ、よほど公式の場でない限り、グラウドなどはこの砕けた話し方を改めようとはしない。それに小さく苦笑を浮かべて、セスティアルは青みがかった銀の瞳でカイゼルに問いかけた。説明する許可をいただけますか、と。
 カイゼルが鋭く笑って頷くのを待ってから、セスティアルは「では」と軽く頭を下げて、他の騎士たちに向き直った。
「簡単なことですし、何も難しいことはないでしょう。カズイからの報告によれば、反乱勢力はトランジスタの軍だけでなく、周辺地方の武力組織をも巻き込んだ大規模なものです。その勢いと数は恐るべきものですが、あるいはそれゆえに、反乱勢力そのものは統率のそれた一軍ではありえません。そして内通者がいるという、ほぼ疑うべくもない事実。……ここに、我々のつけ入る格好の隙が存在します」
 揺るぎない笑みと共に告げられた言葉に、騎士たちはそれぞれ異なる表情を閃かせた。亜麻色の髪を持つ少年姿の騎士と黒髪の女騎士、そして隻眼の騎士は得心がいったというように頷き、刈り込まれた茶髪の大男は訝しげに顔をしかめ、黒ずくめの剣士は興味がなさそうに眼差しを流す。だがそれも、セスティアルの説明が続くうちにかすかな驚きと、大きな納得に彩られたものへと変化していった。
「……なるほどな、面白い」
 軍議が始まってからずっと無言だった黒ずくめの剣士、ディライト・ヴェル・シルファが、くっと喉の奥で低く笑い声を立てた。彼の判断基準は明確だ。戦闘に楽しみを見出せるか否か。忠義も職務も視野に入れていない彼は、騎士という肩書きにふさわしい人物とは言い難かったが、カイゼルはそんなヴェルの存在を面白いものとして許容していた。
「作戦の概要は理解できたな? 説明は以上だ……ヴェル」
「何だ」
「お前に先発隊の指揮を任せる。『真っ直ぐ』にトランジスタの正面門に向かい、派手に攻勢をかけて来い。引く時機はお前に一任してやる。見誤るなよ」
「いいだろう。部隊など邪魔だが、今回は引き受けてやる」
 騎士団長と麾下の騎士とは思えない会話だが、カイゼルは「ああ、しくじるなよ」と鋭い笑みを過ぎらせだけだった。そのまま深い青の瞳で会議室を見渡し、必要最低限の言葉だけで指示を出していく。
「リチェルとジェインは『仕掛け』だ、その後はいったん引いて『本陣』と合流しろ」
「はい」
「心得ました」
「グラウドはわかってるだろうな、くれぐれも短気を起こすなよ。お前のせいでしくじったら殺すぞ」
「へいへい、任せて下さいって」
 それぞれが神妙に、あるいは楽しそうに頷くのを満足げに見遣り、カイゼルは横に控えたセスティアルを首だけで振り返った。刃のような鋭い眼差しを容易く受け止めて、セスティアルは艶やかな黒髪をさらさらと流して首を傾げる。
「他の第一位階の騎士……水上砦シャングレインの司令官と関所の責任者は別として、その他の者は帝都の守りに残していきますか?」
「ああ、貴族のヤツラが泣き出さない程度には残していってやれ。お前らだけで十分だ」
「御意に、我が君」
 第一位階の騎士は十三人存在するが、そのすべてが帝都に留まっているわけではない。半数近くは地方の総督や関所の責任者、要塞の司令官として大陸中に散っており、治安の維持や兵士の養成に腐心していた。特に、先代の皇帝の御世から地方都市の独立志向が強まったため、帝国の治世は磐石とは言い難くなっている。だからこそ、カイゼルがこの出陣に伴っていくのはリチェル、ジェイン、グラウド、エステラ、ヴェル、そしてセスティアルの六人のみだった。
「よし、明朝には帝都エリダを出る。軍務省への『作戦の説明』はセス、お前がやれ。他は解散だ」
 すべての討議を終え、カイゼルは卓上にトンと片手をついて立ち上がった。セスティアルが優雅に首肯して席を立ち、さっさと退出していくヴェルに続いて軍議の場を後にする。他の騎士も時間を無駄にすることなく、カイゼルへ目礼してからそれぞれの部隊を整えるために退出した。翻る紫のマントが視界から消えると、カイゼルは無造作に背後の扉を振り返り、「シオン」と隣室で控えている侍従の少年を呼んだ。
「……お疲れ様です、カイゼル様」
 生真面目な応えと共に小柄な少年が姿を見せ、主君の前まで来ると丁寧に一礼した。普段通り、体の芯まで礼儀を叩き込まれたような態度だが、心なしかその表情が強張っているように見える。カイゼルは軽く眉を上げ、呆れたようにシオンを見下ろした。
「何だ、まだ緊張してるのか? たかが反乱の鎮圧ごとき、緊張する必要などないと言っただろうが」
 言葉通り緊張の欠片の見られないカイゼルに、シオンは思わず「無理ですっ」と叫びそうになり、かろうじて自制した。
 そもそも、刃物など包丁と果物ナイフ、あるいはカッターと彫刻刀程度しか使ったことのない高校生が、戦場に赴く際に緊張しなかったとしたら異常である。兵士として前線に立つわけではなくとも、いつ敵が切り込んでくるか、矢が降ってくるかわからない以上、安全という言葉とは程遠い状況だ。祈るような表情を浮かべ、全身で緊張を表しているシオンに瞳を眇めると、カイゼルは紅のマントを翻して踵を返した。
「……?」
 退出するならば先に行って扉を開けなくては、とシオンは足を踏み出しかけたが、カイゼルは扉には向かわず、卓上に投げ出されたように置かれていた物を拾い上げた。それが長くも短くもない、精緻な細工の施された細身の剣だ、とシオンが気づいた瞬間、前触れなくそれを放り投げられて瞳を見張る。慌てて両腕を出して受け止めると、持ったことのない重みがズシリと手に伝わってきた。
「……カイゼル様?」
 その意図を掴み損ねて首をひねるシオンに、カイゼルは卓から離れながら簡単に答えた。
「護身用だ、帯剣しておけ。どうせ使えないだろうが、素手なら一秒で殺されるところを、三秒程度に引き伸ばす効果くらいはあるだろう」
「……」
 それで何か事態が好転するのだろうかと、シオンはつい素直に顔を歪めてしまった。
「何だシオン、文句でもあるのか?」
「っ、いえ、とんでもありませんっ!」
 とたんに鋭い眼差しで上から見下ろされ、シオンは必死で首を横に振った。確かに剣など使ったことがないが、振り回しているだけでも牽制の効果くらいはあるかもしれない。そう考えて剣を持ち直し、「ありがとうございます」とカイゼルに頭を下げた。
 その拍子に視界に入った剣の細工は、この世界に完全に馴染んだわけではないシオンの目から見ても、十分瞠目に値するほど見事なものだった。
 柄頭と鍔の部分は銀を基調として、極上のものだと一目で知れる紅の宝石が嵌め込まれている。その宝玉を繊細な細工が受け止め、鞘と一体になるように優美な文様を描いていた。だが、柄の部分は装飾性を廃した握りやすいもので、この剣がただの飾り物ではなく、戦場で使用されるに足る武器だということを示している。
 シオンは困惑げに瞳を揺らし、剣を掲げながらカイゼルを見上げた。
「よろしいんですか? その、こんなに立派な剣をお借りしてしまって……」
 自分ならば、絶対に壊すか失くすか奪われるか、あるいは剣の存在さえも忘れて斬り殺される可能性が高すぎる。あまりにも情けない事実だが、シオンはこのように見事な剣を無駄にしてしまいたくなかった。だがカイゼルは眉を寄せると、「馬鹿か、お前は?」と低く呟いた。
「お前は俺を誰だと思ってる? その程度の剣、返されても邪魔なだけだ」
「え?」
「それはお前の剣だ。まさかこれから先も丸腰で暮らしていくつもりだったのか? めでたいヤツだな」
「……あの、では」
 もらってしまって構わないのですか、とあくまで低姿勢で問いかけるシオンに、カイゼルはぞんざいに頷いてみせた。
「ああ、ただし手入れは自分でやれ。……それと、万一折れたり破損したりしても、戦場に捨てて帰ってきたりはするなよ」
「あっ、はい、もちろんです! ありがとうございます」
 急いでペコリと頭を下げたシオンは、カイゼルがほんのわずかに開けた間には気づかず、銀の剣を両手で抱えなおした。やはり、それは自分ごときの膂力で振るえるのか不安になる程度の重さがあったが、戦の前に緊張した身には安心感を与える重みだった。
 そして何より、カイゼルに剣を託されたことが嬉しかったのだ。
 緊張に強張っていた表情を緩めたシオンに、カイゼルは口元にわずかな微笑を過ぎらせ、その堂々とした長躯を翻した。
 敗北の可能性など完全に排除した、勝利しか見据えていない者の姿で。
「行くぞ、シオン。反乱勢力を潰す」
 まずはそれからだ、と誰にともなく呟いて、常勝不敗の大将軍は不敵な眼差しを宙に放った。




「……そうか、明朝発つか」
 皇宮スティルヴィーアの庭園に構えられた、色とりどりの花びらで溢れ返る薔薇園で、報告を受けた皇帝は楽しそうに喉を鳴らした。
 宦官のシエラ・イリス・ファランディエナは、そんな主君の様子に軽く首を傾げた。だがその理由を尋ねる権限は持っておらず、作り物めいた美貌を伏せて淡々と報告を続ける。
「はい。その後、トランジスタから見てエリダよりに広がる平原に布陣し、全軍を挙げて『外壁の門を打ち破る』とのことです。また、ライザード卿は軍をいくつかの部隊にわけ、時間差をつけて進軍させるつもりだとのこと。……軍務長官殿は『作戦の真意を明確にせよ』とお怒りのご様子でしたが、ライザード卿は『心配には及ばす』の一点張りのようです」
「そうか。正面の門を破り、堂々と攻め入るか」
「はい、そう仰っておられました」
「なるほど、ライザード卿はそう報告して来たのだな?」
「はい」
 問い返すヴァルロの態度に含みのようなもの感じて、シエラは再び首をひねらずにはいられなかった。そんな侍従の表情に気づいた様子もなく、皇帝は無骨な指先で淡い黄色の花びらに触れる。滑らかな感触を楽しむようにしながら、抑えきれない喜悦の笑いに肩を震わせた。
「そうか。では、予はライザード卿らがもたらす勝利の報を、玉座に坐してゆっくりと待つとしようか」
「……ライザード卿は、勝利なさるでしょうか」
 ついそう尋ねてしまってから、シエラはハッと体を強張らせた。差し出口を、と咎められるかと思い、口をつぐんで主君の表情を伺う。だがヴァルロの瞳はあくまで笑みを浮かべたままで、そこに苛立ちの波が立つことはなかった。
「当然であろう、シエラ。彼の者が、たかが地方反乱の鎮圧ごときで敗北すると思うか? 万が一あったとしても、そのようなことは予が許さぬ」
「……」
「困るのだよ、敗北などされてしまっては」
 その笑みは一瞬前と変わらないものだったが、何故か背を伝う冷たいものの存在を自覚し、シエラは反射的に居住まいを正した。
 うっとりと微笑したヴァルロは、どこか愛撫するような仕草で薔薇の花びらに手を這わせ、くすんだ色彩の蒼い双眸を細める。
「予が、困るのだよ」
 その呟きの余韻が消えると同時に、至尊の身とは思えないほど節くれだった無骨な手が、ぐしゃりと淡い色の薔薇を握り潰した。華奢な薔薇は容易く花びらを散らし、ゆっくりと開かれた手のひらから零れ落ちていく。それを見遣ったヴァルロの表情には、深淵の底から吹きつけてくる風のような、ぞっとするほどの冷たさと底知れなさがたゆたっていた。
 それは狂気と紙一重の、歓喜だ。
「こうしてずっと、予は待っておるのだからな」 






    



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