3 外壁都市の城


 

 
 エルカベル騎士団が帝都を発った、という情報は、すぐさま戦場であるトランジスタにも伝わってきた。
 それを最も喜ぶべきなのは、本来ならば攻め立てられているジェリーレティアの帝国兵たちである。だが、そこの総督であるカズイ・レン・ヒューガは、もたらされた報告に目を走らせて渋面を作った。
「帝都からの救援は、いくつかの部隊に分けられてトランジスタの外壁に向かっているのか? しかも、それぞれの部隊は千から二千程度、だと?」
 何だそれは、と訝るように呟いたカズイに、向かい合った席に座る少女が真面目な顔で頷いた。
「うん……じゃなくてはい、司令官。先発部隊はすでに正面の平原に布陣し、それをディライト・ヴェル・シルファ卿が率いていらっしゃるようです」
「げっ!」
 第三位階の騎士であり、総督の副官という地位にある少女の言葉を受け、カズイは騎士にあるまじき素っ頓狂な声を上げて仰け反った。
 カズイは理由なく他人を嫌ったりはしないが、冷ややかな瞳をした黒ずくめの剣士は、彼の忌避と怒りを買うのに十分すぎる気質の持ち主だった。会うたびに当然のごとく無視され、ムッとして声をかければ冷笑を叩きつけられ、怒りに任せて肩に掴みかかれば剣を一閃される。それはカズイに限ったことではなかったが、だからといって憤怒が収まるわけでもなかった。
「……あいつに助けられたりしたら、俺しばらくの間立ち直れないぞ? セスとかリチェルにからかわれる方が何倍もマシだ」
「え〜、でもヴェルさんは多分、カズイちゃんのことなんて歯牙にもかけてない上にいっさい視界に入れてないと思うから、大丈夫だよ」
 からかわれたりしないって、と言って朗らかに微笑む少女に、カズイはばたっと音を立てて卓上に突っ伏した。事実だとわかっているからこそ、無邪気に笑う少女を咎めることもできない。腕から明るい青の双眸を持ち上げ、カズイは憤懣やるかたない、というように薄い茶色の髪をかき回した。
「……エレア、口調」
「あっ、申し訳ありませんでした、ヒューガ司令官」
 途端にエレア、と呼ばれた少女の背筋が伸びる。エレアライル・フィンローネというこの少女とは、エルカベル騎士団に入団する前からの浅からぬ付き合いである。そのため、人のいない場所では砕けた口調の方が自然なのだが、任務中は公私の区別を徹底するべきだ、というのがカズイの持論だった。
 不満そうに唇を尖らせながらも、素直に従って口調を改めるエレアを見遣って、カズイは仕方なさそうに微苦笑を浮かべた。
「で、話を戻すぞ。ヴェルの野郎が率いてくる先発部隊は、本隊とはかなり離れて先行して来るんだな? しかも騎兵ばかり、たった千騎で」
「そうです。しかも本陣に残った勢力も三千程度で、リチェル卿、グラウド卿、ジェイン卿などがそれぞれ部隊を任されて進軍してくるみたいです。……全方位から外壁を攻めて、短期間で破ってしまうつもりなんでしょうか? それとも、都市の中に立てこもった敵の注意を分散させるとか?」
 エレアは魔術によって文字の浮かび上がった書類を見つめ、栗色の髪を揺らしながら首を傾げた。
「でも、団長らしくありませんよね、わざわざ兵力分散の愚を犯すなんて。敵に頭の切れる者がいて、上手く半数の兵力を裂いて打って出て来たら、みすみす各個撃破の好餌になりかねないのに」
「……」
 う〜ん、と眉を寄せて考え込むエレアに答えず、カズイは片手を顎に当てて沈黙した。
 よほど敵の包囲が緩まない限り、カズイの率いる騎士団の部隊は城から出られない状況にある。つまり、反乱勢力の方は最低限の兵を城の周囲に残しておいて、救援に来た騎士団本陣を叩くことも可能なのだ。それがカイゼルとセスティアルにわからぬはすがない。その認識と矛盾する現状に眉をしかめたが、ふと、カズイの青い瞳に思いついたような光が躍った。
「エレア、もう一度聞くが、本陣を率いてくるのは団長……カイゼル様なんだな?」
「え? ……うん、それはそうだと思うよ? カイゼル卿は騎士団長でいらっしゃるんだし、総指揮官の地位なんだから」
「――――そうか」
 真剣な表情でエレアの言葉を聞いていたカズイは、不意にニッと唇の端を持ち上げた。作戦会議用の机から身を起こし、椅子にかけられていた紫のマントを取り上げる。驚いたように首を傾げる少女を見下ろすと、悪戯を思いついた少年の笑顔で口を開いた。
「わかったぜ、団長とセスの策が」
「え?」
「そうとわかれば、こっちもすぐに出られるようにしておかないとな。うっかり期を逃したりしたら、俺が団長に八つ裂きにされちまう」
「え、え? カズイちゃん?」
 マントを羽織りながら歩き始めたカズイに、エレアは慌てて席を立った。扉に手をかけて少女を待っていてやりながら、カズイはやれやれと嘆息する。意識せずに流した瞳に三日月の旗が映り、その溜息はさらに深くなった。
「それにしても、作戦の概要くらい『送って』くれたっていいよな……」
 敵に傍受される心配があるとはいえ、エルカベル騎士団には最高位の魔術師『レイター』の称号を持つ、セスティアルとリチェルの二人がいるのだ。彼らの術に干渉できる者など、同じようにレイターの称号を帯びながら皇宮に仕える二人の魔術師か、皇族の中でも抜きん出た力を持つ者だけである。そうだというのに、カズイの守るジェリーレティアには上司からの命令どころか、作戦を仄めかす通信すらなかった。
 それの意味することは明白だ。
「つまり、それくらい自力で気づけなきゃ殺す、って意味だよな。やっぱ」
 危なかった、という遠い目をしたカズイの呟きに、追いついてきたエレアは琥珀の目を瞬かせて首を傾げた。
 カズイが団長のことを語る時、いつも殉教者のような顔をして遠くを見るのは何故だろう、という、純粋で無邪気な疑問を浮かべて。
 悟りきった微笑を口元に滲ませたカズイは、何も言わずに副官である少女の頭をポン、とはたくと、自己の任務を果たすためにマントを翻して踵を返した。
「まあ、殺されないように必死で戦うか」
 独り言を呟きながら、カズイの手が無意識の内に騎士服の胸元を握り締めた。慣れ親しんだ硬い感触が手に当たるのを感じて、やはり意図せず安堵の息が漏れる。何度か確かめるように指先で触れると、どこか丁寧な仕草で手を離した。
 シャランというかすかな鎖の音は、扉を閉める音に掻き消されて響くことはなかった。




 シェラルフィールドの夏は短く、昼夜の区別もはっきりしている。
 今も、抜けるようだった蒼穹は急速に明度を落とし始め、トランジスタの堅固な外壁に翳りを投げかけていた。あとしばらくすれば、朱金色の衣をまとった太陽が西の空を滑り降り、美しい白亜の壁を薄赤く染め上げるだろう。平和な時分ならば夜中まで解放され、商人や旅人、時には休息にやって来た貴族たちを迎え入れる荘厳な門は、だが今はしっかりと閉ざされて開かれることはなかった。
「ふん、噂の騎士団長も大したことはないな。包囲して呼びかけれでもすれば、我々がすんなりと降伏して門を開くとでも思っているのか? 我らにとっては小出しにされた兵力をじわじわと削っていく、またとない機会ではないか」
 どこから手に入れたのか、正規の軍が使うような天幕の奥で、トランジスタの警備隊長であった男が口髭を歪めた。だが、その太い眉は訝しさに軽くしかめられ、完全な嘲弄の表情を作ることに失敗している。敷き詰めた毛氈の上にあぐらをかき、警備隊長の言葉を黙って聞いていた男が、露骨な不審を込めて吐き捨てるように言った。
「そうは言っても、罠である可能性も十分にあるだろう。我々がのこのこと外壁を出て行ったところで、思わぬ伏兵に背後をつかれて総崩れにでもなったら、今の帝国の腐敗を誰が止めるというのだ?」
「だが、罠と決まったわけでもあるまい」
 警備隊長は気分を害したように声を高め、向かいに座る男を睨みつけた。
 男はトランジスタの者ではなく、呼びかけに呼応して集った武装勢力の盟主であった。元々の仲間というわけではなく、意見が統一されているわけでもない。一気に険悪になりかけた空気に、もう一人の青年が両手を上げながら割って入った。
「確かにその通りですが、まずは落ち着いて下さい、お二方。今はいがみあっている場合ではありますまい」
 静かでありながらよく通る声に諌められ、警備隊長と盟主は互いに視線を逸らしあった。それに困惑したような溜息を漏らし、青年は手元に淡く文字列を浮かび上がらせながら言葉を続ける。
「確かにカイゼル・ジェスティ・ライザードの思惑は読めませんが、今はそれについて言い合っていても詮ないこと。ですがどちらにせよ、いつまでもこの壁の中に閉じこもっているわけにもいきません。糧食は無限というわけではなく、武器とて……こうなってしまっては、今回の戦でこれ以上の援助は望めませんから」
「だからこそ、敵が兵力を集中させる前に叩いてしまうべきではないか」
 青年のもっともな指摘を受けて、好戦的な警備隊長がここぞとばかりに声を上げた。
「もう城攻めを始めて四日経つが、ジェリーレティアは一向に落ちない。このまま空しく時を浪費するより、糧食が尽きる前に援軍の方を叩いておけいた方が、後々のことを考えれば有益なのでは?」
「だから、それが罠ではないと何故言い切れるのだ!?」
「ならばこのまま臆病風に吹かれて期を逃し、帝国の犬どもの前に敗れ去るのを待つのか!」
「……ともかく」
 激昂して腰を浮かせた二人の間に、青年はやんわりとした動作で体を割り込ませた。向けられる鋭い視線をゆるりと笑ってかわすと、両手で座るように促し、なだめるように瞳を細めてみせる。不満げながらも従った二人を交互に眺めやってから、青年はつかみ所のない表情のまま手元に視線を落とした。
「我々にはそう多くの選択肢は残されていません。斥候に調べさせたものと、『あちら側』から送られて来た情報。これらをもとにして、あとは状況に応じて対応していくしかないと思われますが」
 消極的だが理にかなった言葉を受けて、二人はむっつりと押し黙った。確かに、まだ帝国側の動きがすべてわかったわけではない。このまま外壁を閉ざして城攻めを続けるのか、それとも打って出て援軍を叩くのか、すぐに決めてしまうのは早急に過ぎるだろう。そう思って頷いた二人の男に、青年は淡い微笑を滲ませた。
「では、状況の変化を待ちましょう。――――大丈夫です、帝国はすでに、四玉の王の加護を失っているのですから」
 そう言って首を傾けた青年の髪が、魔力によって灯された仄かな明かりに映え、赤い色彩を炎のように揺らめかせた。
 天幕での会議はその一言を持って終了し、警備隊長と盟主の男は、どこか不服そうな表情を過ぎらせながらその場を後にした。若輩であり、この戦いにも途中から参加しただけの青年に、軽くあしらわれたような気がして面白くなかったのだ。だが二人の不満は、その夜に起こった騒ぎによって一気に霧散することになった。
 ディライト・ヴェル・シルファ率いるエルカベル騎士団が、夜陰に紛れてトランジスタの門へ攻勢をかけてきたのである。
 それはまさに風のような、と表現するのにふさわしい、迅速でありながら直前まで気配を感じさせない、司令官の力量を伺わせる完璧な夜襲だった。
 
 


「始まった、か」
 厚い外壁の外側から高く響く、戦の剣戟と弓弦の音に耳をすませるようにして、赤い髪を風になびかせた青年は小さく笑った。
 その表情にも口調にも、先ほど二人の男と対峙していた時のような、穏やかで柔らかい雰囲気は微塵も残されていない。夜闇に浮かび上がる血色の瞳を冷たく細め、青年はふんと傲慢に鼻を鳴らしてみせた。
「あの程度で国家転覆を狙うなんて、滑稽を通りこして憐れですらあるね。せっかく流してあげた情報も武器も、これじゃあ完璧に無駄になりそうだ」
 侮蔑のこもった口調で呟くと、そのままくるりと背後を振り返った。その足元にあるのは大地ではなく、トランジスタを守るために作られた堅固な外壁だ。高さ二十カイン(二十メートル)、幅は三カイン程度しかない外壁の上に危なげなく立って、青年は冷めた表情のままジェリーレティアを見下ろした。
 風が音もなく吹きすぎ、上流階級の者は髪を伸ばすシェラルフィールドでは珍しく、やや短めに切られた赤い髪を揺らした。月明かりに透けてかすかに濃淡を変えていく様は、ゆらりと立ち上った焔色の陽炎を思わせる。青年の細い指が無造作にそれをかき上げ、指の合間から零れて涼しげな音を立てるのさえ、どこか禍々しく、美しかった。
「まあ、あとは適当にがんばるんだね。僕の役目はここまでだ。……君たちでは、絶対にカイゼルには勝てないだろうけど」
 くすっと口元を綻ばせ、青年は片足を軸にもう一度身を翻した。細身の体にまといつくマントが風を孕み、紫の色彩を月光に浮かび上がらせる。紅玉より鮮やかな、溢れ出したばかりの血の色にも似た双眸が、長い睫毛を透かすようにしながら三日月を仰いだ。
「ホント、面倒くさい任務はこれっきりにしてもらいたいね、まったく」
 どうして僕があんな凡愚どもの相手をしなきゃならないわけ、という呟きは、青年の足元から巻き上がった燐光に呑まれ、揺らぎながら消えていく。
 夜の闇をふわりと裂くようにして光が舞い、青年の体を柔らかく取り巻いた。人目を引かない程度のひそやかな輝きは、黄金色の砂金を地面から巻き上げたようにも、極薄の紗を幾重にも翻したようにも見える。やがて金の光は生まれた時同様、音もなくほどけるようにしてその空間から消えた。
 そして元通り落ちかかった闇の中には、青年の姿はどこにも存在していなかった。






    



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