4 始動する策略





 ヴェル・シルファの持つ『ディライト』の称号は、魔術を最高のものと見なす世界では異端とも言える、最高位の剣士へと贈られた誉れの名だった。
 先代から儀式を通して名を受け継ぐ『レイター』と違い、ディライトの継承は先代との決闘によって行われる。定められた闘技場で先代のディライトと剣を交え、勝利した者が新たな継承者として名を継ぐのだ。その特異な性質のためか、ディライトの称号を持つ者は魔力が低く、剣の技量に優れた生粋の戦士が多かった。
 第一位階の騎士であるディライト・ヴェル・シルファも、純粋な戦闘においては他の追随を許さない、戦うことを至上命題とする剣士だった。
「……ディライト・ヴェル・シルファ!!」
「帝国最大の『至高の剣』……っ、馬鹿な、何故!!」
 トランジスタの外壁に響いたいくつもの声は、恐怖と狼狽に彩られた絶叫だった。
 反乱勢力のすべての手勢が、トランジスタの外壁の中におさまっているわけではない。最低限の補給路の確保と、呼応して発起する予定の他勢力との連携を図るため、二百ほどの部隊が外壁の外に配置されていた。もちろん、反乱勢力はこの部隊を見殺しにするつもりなどなく、帝都からの援軍が到着する前に外壁の中に収容するつもりだったのだろう。だが、ヴェルからすればそれを待ってやる必要など皆無である。夜陰に紛れて死角から迂回し、直前まで気づかれることなく外壁に接近したヴェルは、カイゼルに任された勢力のすべてをこの部隊に叩きつけた。
 周囲はたちまち乱戦となり、仮初めの静寂を破って剣戟の音と絶叫が弾けた。
「――――カイゼルは退く時機を見誤るなと言っていたが、折角の機会だ。せいぜい戦闘の猛りを愉しむとしようか!」
 先陣をきって敵軍の中に躍り込みながら、ヴェルは楽しげに唇の端を持ち上げてみせた。葦毛の駿馬からひらりと黒い影が飛び降りると、抜き放たれた銀の剣が縦横に走り抜け、暗がりに沈んだ闇に禍々しい紅を描き出す。揺れる短髪に鋭い瞳、まとった服から硬いブーツまで夜色に統一された装いの中、紫のマントだけが鮮やかに翻った。
 至高の剣とは、黒衣の剣士の技量に敬意を表した者が、誰からともなく呼び始めたヴェルの二つ名だった。それは的を射た表現だと言えるだろう。ヴェルの振るう剣はまるで魔術のようなあっけなさで、眼前に立ちはだかった男たちを両断し、あるいは貫いて地に沈めていく。一人の男の背後に回って喉を掻き切り、その背を蹴ると見もせずに切っ先を後ろへ突き出して、襲い掛かってきた相手の心臓を正確に刺し貫いた。刃が打ち合わされることすらなく、悲鳴と鮮血が吹き上がる音だけを伴う戦い方は、まさに至高の剣と言わしめるにふさわしいものだった。
 ピッと頬に散った血を拭いもせず、ヴェルは心地よさげに黒玉の瞳を細めて笑った。
 苛烈な気性を伺わせる、鮮烈で峻厳な表情で。
 カイゼル・ジェスティ・ライザードが戦闘を司る闘神ならば、ヴェルは戦の中でのみ生きられる鬼神だろう。その笑みも、返り血をまとって禍々しく浮かび上がる姿も、戦う者たちの恐怖を煽るには充分すぎるものだった。
「どうした雑兵たち、それで終いか! まさかこの程度で帝国の転覆を狙うつもりか? 笑わせてくれる!!」
 ヴェルのあからさまな嘲弄を受けて、反乱勢力の男たちの顔に恐怖を上回る怒りが浮かんだ。口々に叫びを上げながら、手にした武器を振り回してヴェルに向かってくる。黒衣の騎士はペロリと唇を舐めると、ぞっとするほど深い色の瞳を喜悦に輝かせた。戦いの場に満ちた空気は、どんな時であろうとヴェルにとっては歓喜なのだ。
 刃によって切り裂かれる大気を感じ、絶叫と鮮血にまみれた大地を踏んで、剣の切っ先で愚かな敵の体を切り裂く時、ヴェルは心地よい高揚感と共に何よりの生を実感することができる。
 それは自分の死すら天秤に乗せた、高邁で無意味な遊戯の一環だ。
「貴様がこの空気を俺から奪わぬ限りは、俺は貴様の麾下で剣となるだろうよ。なあ、カイゼル?」
 誰かに聞かせるためのものではない呟きは、吹き上がった血霧に遮られて響かずに消えた。




『お前が新しいディライトか? ……ふん、若いな』
 突然そんな声を響かせたのは、榛色の髪を風に流して佇む、紫のマントをまとった青年だった。 
 堂々としたその動作も、彫刻のように整った面差しに湛えた鋭い笑みも、二十歳前後と思しき若さにはそぐわないものに見える。だがこの青年には、不思議とそれらを当然だと思わせる雰囲気があった。
 ヴェルは剣呑に瞳を眇め、紅の流れが伝う剣をゆっくりと掲げてみせた。
『どけ、死にたいのか?』
『馬鹿か。何故、俺がお前ごときに殺されなければならない? 俺はお前に話がある。聞かずに通りたかったら力ずくで通ってみせろ』
 たった今先代のディライトを倒し、名実共に帝国最強の剣士となったヴェルに対して、青年は気負った様子もなく腰から剣を抜き放った。青年とヴェル以外は誰一人として存在しない静寂の中、銀の鋼が立てた音だけがやけに涼しげに響く。
 たったそれだけの動作で青年の実力を看破し、ヴェルはゆったりと口元に笑みを浮かべた。
『いいだろう。そうまでして死を望むなら、今この場で殺してやる』
『やってみろ、お前に俺が殺せるならな』
 ヴェルの冷ややかな言葉を受けて、青年は刃の切っ先を思わせる笑みを閃かせた。
 その微笑を、人は何と呼ぶのだろう。
 それは王者とも、支配者とも言えるような、鮮烈にして揺るぎない笑みだった。不思議と高揚する心を自覚し、ヴェルは構えた剣をゆっくりと流しながら、青年との間に充分な間合いを取った。風がゆるりと吹きすぎて、青年のまとった紫のマントを翻していく。
『……そうだな。俺に殺されなかったなら、貴様の話をやらを聞いてやる』
 そんな言葉がヴェルの口から零れたのは、その絶対の存在感に惹きつけられたゆえだったのかもしれない。青年はもう一度鋭く笑うと、『何度も言わせるな』と言い捨てて切っ先を掲げた。
『俺が、お前ごときに殺されるはずがないだろう?』
『ぬかせ』
 その一言を皮切りとして、青年と帝国最高の剣士は同時に地面を蹴り、静寂の中に澄んだ金属音を響かせた。
 ただむっとするような血の匂いの漂う、痛いほど張り詰めた静寂の中で。
 



 くすり、と冷たい微笑を口元に浮かべると、ヴェルは柄までべっとりと赤く染まった剣を払った。
「……だから、この俺を失望させてくれるなよ」
 ぞっとするような低い呟きと共に、黒衣の騎士は短く指笛を鳴らして愛馬を呼んだ。体はさして大きくはないが俊敏な葦毛の馬は、主の意に沿って従順に戦場を駆けてくる。その手綱を取って体を鞍上に跳ね上げると、ヴェルは魔力によって麾下の部隊に伝令を飛ばした。
 退くぞ、と。
 そのたった一言で、ヴェルに負けじと熾烈な戦いぶりを見せていた騎士たちは、潮が引くように剣を収めながら戦線を離脱し始めた。それも闇雲に退却するのではなく、敵を誘い出すようでありながら統率の取れた動きだ。逃がすな、という司令官の絶叫も空しく、すでに反乱勢力にこれを追撃するだけの余力は残されていなかった。
 ディライト・ヴェル・シルファの率いるエルカベル騎士団は、たった数時間の戦闘で、二百あまりの敵部隊に尋常ならざる被害を与えた。だが一定以上の時間が経つと、トランジスタの外壁に肉薄しながらそれには見向きもせず、進撃して来た時同様の素早さで退却してみせたのだ。
 残されたのは空気を凝縮したような血の匂いと、大地が吸いきれなかった禍々しい紅の池、そして無残に引き裂かれたいくつもの屍のみだった。




 夜気を揺らして清かに響いた、どこか鈴の音のようなそれに耳をすまして、セスティアルは伏せていた銀青の双眸を持ち上げた。
 光源は細い月明かりのみの中、艶やかな黒髪が肩をすべって零れ落ちていく。それを優雅な動作で払うと、レイターの称号を持つ美貌の魔術師は主君を振り仰いだ。
「我が君。ヴェルの部隊は予定通り退却し、外壁へ向かっている『本陣』へと合流を始めたようです」
「そうか」
「はい。……それと、戦闘の結果をお聞きになられますか?」
「不要だ、どうせ予想と大差ないものだろう」
 不安など微塵も含まれていない笑みを過ぎらせて、カイゼルは隣で馬を進めるセスティアルを見下ろした。その答えは予想通りのものだったのか、セスティアルも「御意」と淡く微笑んで頭を下げる。再び顔を上げた時には、すでに先の戦闘のことなど気にも留めていないように、青みがかった銀の瞳を細めて違う話題を口に上らせた。
「そういえば、よろしかったのですか?」
「何がだ?」
「我が君でしたら、強固な結界でくるんで前線に放り出すくらいはなさるかと思ったのですが」
 セスティアルの言葉は曖昧なものだったが、カイゼルには充分すぎるほど伝わったようだ。ふん、と端正な唇の端を持ち上げると、深すぎる色彩の青い双眸を眇めてみせた。
「あんな貧弱なガキを前線に放り出して、そのままあっさり死なれても迷惑だからな。軍属の身分をくれてやったんだ、今のところは後方で戦の空気に慣れさせておけばいいだろう」
 聞きようによっては冷淡に響くカイゼルの声に、セスティアルはやんわりと湛えた笑みを深くした。たったそれだけの仕草で、仄かな光が強まって白皙の造作を浮かび上がらせるように思われる。セスティアルの周囲には彼を慕うように、そしてカイゼルの傍には臣下が服従を誓うようにして、漂う魔力が絶対の支配者を飾り立てていた。
 その光を類稀な美貌の頬に受けながら、セスティアルはふふ、とかすかな笑い声を響かせた。
 カイゼルの侍従である少年の姿を思い浮かべ、銀青の双眸に優しさが滲む。
「やはり、我が君はずいぶんシオンにお優しくていらっしゃる。……あの剣も、シオンにあげてしまわれたのでしょう?」
「ああ。使いこなせるかどうかは知らんがな」
「それは大丈夫ですよ。シオンには四玉の王の加護があります。きっと、あの紅玉の王の加護あつき剣が守ってくれるでしょう」
 穏やかに言い切ってみせたセスティアルは、ただ、と小さく呟いて苦笑を浮かべた。
「シオンには戦闘の心得がまるでありませんからね。この戦が終わったら多少は学ばせるべきでは?」
「そうだな。これから先、どこかで野垂れ死なない程度には鍛える必要があるか。今のままだと、フィオラどころかシェラナにも簡単に殺されるだろうからな。あの軟弱なガキは」
 やはりカイゼルの言葉は容赦がないが、そこにひそむ響きはどこか温かかった。少なくともセスティアルにはそう思えて、「ええ、我が君」と答えながらふわりと笑った。
 穏やかな沈黙が降りた瞬間、不意にリィィン、と鈴の清音にも似た音が響き渡り、黒髪の魔術師と騎士団長の青年は瞳を鋭くした。それは実際に大気を揺らした音ではなく、レイターの命によって情報を届けにくる魔力の波動だ。静かに瞳を伏せて聞き入っていたセスティアルは、ややあってカイゼルに月明かりのような眼差しを向けた。
「……それでは、我が君。私もそろそろ出ようと思います」
「ああ」
 交わされた言葉は簡潔だった。セスティアルは背後を振り返り、ひそやかに行軍している部隊へこのまま進むように告げると、音もなく愛馬の鞍から飛び降りた。やや青みを帯びた白馬の首を叩いて、当然のようにその腹を押して平野に放してやる。駆け去っていく馬に柔らかな瞳を向けながら、セスティアルはくるりと主君を見返った。
 セスティアルは、ここからカイゼルとは別行動を取ることになっていた。この作戦を成功させるための、一種の『保険』をかけにいかねばならないのだ。夢幻的な美貌を淡い光に照らし出させ、セスティアルは舞を思わせる動作で腰を折った。
「では、行って参ります。我が君」
「ああ。あの馬鹿に会ったら『死にたくなかったらキリキリ働け』とでも言っておけ」
「御意」
 あの馬鹿、と呼ばれた青年の顔を思ってくすくすと笑うと、セスティアルはカイゼルの傍から一歩退いた。
 その足元から清浄な光が巻き上がり、美貌の魔術師を恭しく包み込んでいく。それは限りなく白に近い透明な銀光だ。翻る光の紗幕を透かすようにしながら、セスティアルは片手を胸の前に掲げてそっと頭を下げた。
 臣下が主君に施す礼、そのままの動作で。
「ご武運を」
「当然だ」
 サァ、と涼しげな風が吹いて、弾けた銀の光と短いやり取りをさらっていった。揺るぎない主君の答えを受け止めると、セスティアルの端麗な口元に淡い笑みが浮かぶ。それは一瞬の残像となって、するりと解けた光の中に消えていった。
 ≪転移≫によって腹心の姿が消えるのを確かめると、カイゼルは鋭い微笑を閃かせて馬首を返した。
 わずかにも揺らぐことのないその姿は、まるでこれからもたらされる勝利を予言するような、常勝なる者の自信と覇気に満ちていた。






    



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