9 星の光を招く者


 


 あらゆる色を押し流そうとでもいうように、銀色の光が濁流となって世界を支配した。
 剣を振るっていた男たちが、弓をつがえた女騎士が、魔力の刃を操るレイターが、弾かれたように顔を上げて戦場の一点を見つめた。周囲に満ちていた魔力が大きく揺れ、銀の光に飲み込まれてあっさりと霧散する。きつく編まれていた太い縄が、音もなく極細の糸となって解けてしまうように。あるいは淡く小さな燈が、容赦のない突風の前に吹き消されてしまうように。
「……なんだ?」
 薄れて消えていく銀光を呆然と見つめて、カズイは自分の手へと眼差しを落とした。恒常的に発動し、剣や体躯を強化していたはずの魔術の力が、最初から何も存在しなかったようにそこから消え去っていた。ジェインも一つだけ残った深緑の瞳を見張る。だが、その驚愕はカズイのものとは一線を画したものだった。ジェリーレティアの総督として帝都を離れていた同僚とは違い、ジェインはこの感覚に覚えがあったからだ。
「団長……?」
 答えを求めるようなジェインの呟きに、返る声はどこにもなかった。
 二人の騎士だけではなく、騎士団に属するその他の騎士たちも、反乱勢力の兵士たちも、自身を守っていた魔力が強制的にはがされる感触に愕然と目を見開いた。中には恐怖のあまり武器を取り落とし、叫びを上げることもできずにその場に崩れ落ちる者もいる。あるいは錯乱して髪をかきむしり、意味を成さない声を上げてうずくまってしまう者もいる。その怯えきった様子は、さながら絶対の信頼を寄せる母親から引き離され、どうしていいかわからずに泣きわめく幼子のようだった。
「……セス」
 少しずつ薄れて消えていく銀の光を浴びて、亜麻色の髪を持つレイターはきつく眉を寄せた。
「ええ」
 セスティアルも軽く頷き、厳しい瞳で紡いでいた術が消え去るのを見つめた。ジェイン同様、彼らもこの感覚に覚えがあったのだ。鋭い眼差しのままでゆるく首を振ると、セスティアルは優雅な動作で愛馬の背から大地に降り立ち、手綱を騎乗したままの同僚の手に預けた。
「リーチェ、あとは頼みます」
「ああ、任せろ。……なぜかはわからないが、魔力そのものは消えてないようだな。転移は使えるんだろう?」
「ええ、大丈夫です。私たちは、彼の『敵』ではなく、『味方』なのですから」
 彼にしか理解できない言葉と共に、セスティアルの姿は巻き上がった光に飲まれ、リチェルの前から音もなく掻き消えた。
 転移の行き先はただ一つで、セスティアルは魔術によって作られた『道』を抜けると、自然な動作でその場に膝をついた。さらりと艶やかな黒髪が広がり、魔力の残滓をまとわせてうっとりと輝く。
「我が君」
「セスか」
 唐突な出現に驚いた様子もなく、彼の主君は跪く腹心を見下ろした。すでに漆黒の馬の背から下り、鋭い視線を外壁の外へと放っている。浮かべられた表情は冷たく、厳しかった。
「セス、連続で飛べるな?」
「御意」
 その簡単なやり取りだけで、セスティアルはすっと優雅な動作で立ち上がると、手を胸の前に添えて一礼してから魔術を発動させた。『転移』はかなり高位に分類される術であり、空間の裂け目で脆い肉体が損なわれないように守りつつ、望んだ場所と場所をつなげなければならない。自分一人だけならばまだしも、絶対の忠誠の対象である主君が共にいるのだ、並の魔術師ならばどれだけ慎重になっても足りないほどだろう。だが、セスティアルは呪文を詠唱することも印を結ぶこともなく、普段のように容易く道を作り出して見せた。
 魔力を消し去る光が生まれた場所、カイゼルの侍従である少年がいる場所へ。
 カイゼルの愛馬シャウディの手綱を押しつけられ、何の説明もなくその場に置き去りにされた他の騎士たちは、呆然としたままで主君たちが消えた空間を見つめていた。
「なに、が……?」
 起こったんだ、という第三位階の騎士の呟きに、返せる答えを持っている者は一人もいなかった。




 肩に衝撃と灼熱が弾けた、と思った瞬間には、背中に新たな痛みが走って呼吸を詰まらせた。
「……っ!」
 一瞬何が起こったのかわからず、きつく閉ざしてしまった瞼を持ち上げると、シオンはのろのろと周囲に眼差しを走らせた。高い位置にあったはずの視線が低くなっていて、背中から無事な方の肩にかけて硬い何かが当たっている。自分がセレネの鞍上ではなく、馬蹄によって踏み荒らされた大地に転がっているのだ、と気づいた時、右の肩をすさまじいまでの激痛が襲った。
「いっ……痛……っ!」
 とっさに唇をかみ締めながら視線をやると、右肩のつけ根の部分に矢が深々と突き刺さっていた。先ほど放たれた火矢だ。痛みのあまり働きが鈍い頭でそう理解したが、それにしては服や肌などが燃えている様子もない。焼けつくような灼熱感は、あくまでも矢が刺さった傷の痛みがもたらすもので、鏃にともされていたはずの火は跡形もなく消し去られていた。
「――――シオンッ! シオン、大丈夫かね!?」
 シン、と不気味なまでに静まり返った戦場に、ウィルザスの緊迫した声が響き渡った。シオンは必死になって碧の瞳を持ち上げ、駆け寄ってくる小柄な老人の姿を視界に捉える。ウィルザス様、と名を呼ぼうとしたが、そんなささいな動きでも矢が刺さった箇所がすさまじく痛み、思わず涙目になって体を折った。
(……これで死んだら、戦場で矢を受けて死んだ世界初の高校生、かも……っ)
 痛みを紛らすように胸中で呟いても、傷口は激痛を訴えるのをやめてくれそうにない。どくどくとうるさいほどの音を立てて、肩口から何かが流れ出しているのがわかった。怖々と左手で触れてみると、ぬるりとした感触と共に鮮やかな紅が付着した。
「っ、あっ……」
「シオンッ、動くんじゃない、今止血をしてやるから……っ」
 ビクリと体を揺らした少年に、傍らに膝をついたウィルザスが厳しく叫んだ。そのまま突き立った矢に手を伸ばしかけ、痛みにうずくまっているシオンを見下ろしてわずかに躊躇する。治癒の術をかけるには矢を抜かなければならないが、怪我になれていない者を下手に刺激すると危険である。特に矢を抜いた際、その痛みと衝撃で舌を噛んでしまう可能性もあるからだ。こげ茶色の双眸に焦燥を浮かべ、呆然と立ち尽くす味方の騎士を叱咤して手伝わせようとした、その瞬間のことだった。
「――――若っ!!」
 音もなく空間が歪み、そこから榛色の髪を宙に流した堂々たる長身と、長い黒髪を持つほっそりとした影が滑り出てきたのは。
 ウィルザスの声に導かれるようにして、シオンは再び閉ざしていた瞳をこじ開けた。気のせいでなければ、ウィルザスが「若」と呼んだように聞こえたのだ。必死になって開けた碧の瞳は、緋色のマントを風に流して傲然と佇む、何よりも見慣れた姿を映して大きく見開かれた。
「カイゼルさ……」
「何をやってるんだ、この馬鹿が」
 カイゼル様、とその名を呼ぼうとしたシオンは、地を這うような低い声に遮られて言葉を飲み込んだ。傷口を押さえて大地に転がっている少年に、カイゼルは不機嫌さを隠そうともしない足取りで大股に歩み寄る。当然のように場所を空けたウィルザスに一瞥をくれただけで、カイゼルはきつく眉を寄せながらシオンを見下ろした。
「お前は馬鹿か、誰が傷を負うことを許可した? あっさり殺されないように逃げ回れ、と言っておいただろうが」
 聞いてなかったのか、と低く言い捨てるカイゼルは、どうやら本気で怒っているようだった。刃を思わせる瞳が常にも増して鋭く、まとう空気もその絶対的な威圧感を増している。シオンは一瞬だけ傷の痛みも忘れ、地面に倒れ伏したままで首をすくめた。
「あ、あの、申し訳……っ」
「うるさい、いいから黙ってろ。――――セス」
「御意に、我が君」
 名を呼ばれ、セスティアルもそっとシオンの傍らに跪いた。治癒の術でも、最高位魔術師たるレイターに敵う者など存在しない。傷に障らないように少年の体を抱き起こし、ふわりと術を発動させながら矢に手をかける。反射的に体を揺らしたシオンに「大丈夫ですよ」と微笑みかけて、セスティアルは一息にそれを引き抜いた。
 本来なら、そこから大量の血が噴きあがって宙を染め上げるはずだったが、セスティアルの魔術はそれを許さなかった。銀色の輝きが柔らかく生み出されたかと思うと、瞬く間に鏃の抜かれた傷口を包み込み、鮮血が噴き出る前にそこを塞いでしまう。魔力によって活性化した体組織は、壊された箇所を急速に修復しようと働き始める。強張っていたシオンの表情がふっと緩み、傍で見ていたウィルザスが小さく安堵の息をついた。
 だが、セスティアルは本当にかすかに眉をひそめ、手に宿らせた魔力を強くした。
「……? セスティアル、様?」
「いえ、何でもありませんよ、シオン。大丈夫、すぐに治ります」
 うっすらと瞳を開いたシオンに、セスティアルは表情を改めてにこりと笑いかけた。
 カイゼルとセスティアルが出現すると同時に、半径十カイン程度の範囲に強固な結界が張られ、周囲の喧騒を完全に断ち切っている。魔力を消し去られ、兵士たちは恐怖と驚愕に捕らわれて立ち尽くしているが、それがいつ集団による暴走へ変化するかわからないからだ。作り出された仮そめの静寂の中、セスティアルは青みがかった銀の瞳で主君を仰ぎ見た。
「我が君」
「ああ」
 セスティアルとカイゼルの間で、一から十までを言葉にする必要などない。視線と最低限の言葉だけで会話を済ませると、カイゼルは深青の瞳を細めてその場から立ち上がった。緋色のマントが風になびき、無彩色に近しい世界に鮮やかな色を刻みつける。それをぼんやりと視線で追って、シオンは小さく首を傾げた。
「カイゼル様?」
 カイゼルはそれには答えず、ひどく無造作に見える動作で足を踏み出した。セスティアルが張った結界は、その歩みを阻むことなく、あっさりと編み上げられた魔力を薄めてカイゼル通過させる。淡く輝き、当然のように道を開いてみせるその様は、どこか主君に対する従順な臣下のようにも見えた。
 結界の中から外壁に近い戦場に出ると、カイゼルは静かに唇の端を吊り上げて見せた。
「可能な限り捕虜にしてやろうと思ったが……」
 ひっそりと零された呟きは、決して大きいとは言い難い声量だったにも関わらず、静まり帰った戦場にはっきりと響いた。
 座り込んでいた兵士が顔を上げ、緋色のマントに炎を思わせる榛色の髪、そして冷たすぎる光を湛えた深青の双眸に気づくと、ぎょっとしたように立ち上がって手にした武器を構えた。カイゼル・ジェスティ・ライザード。エルカベル騎士団団長にして、帝国最大の闘神。呼び名は多々あれど、その圧倒的な存在感と鮮烈に過ぎる姿を見誤るはすがない。敵の総大将の姿に、カイゼルの姿が見える位置にいた兵たちは目を剥き、反射的に数歩後ずさりながらも切っ先を向けた。
「エルカベル騎士団団長、カイゼル……ッ!!」
「ライザード大将軍!!」
 反乱勢力の兵と騎士団の者、双方がほぼ同時に驚愕の叫びを上げた。だが、カイゼルはそのどちらも無視してのけると、ゆっくりと微笑を深くしながら言葉を続ける。浮かべられた微笑と言葉の響きは、音もなく舞い降りた死神のそれを思わせた。
「いい度胸してるじゃないか。よりにもよって人の糧食を狙った挙句、この俺の侍従に傷をつけてくれるとはな」
 ゆるりと持ち上げられた手に、ぞっとするほど濃い密度の魔力が集中した。それは温度が上がりすぎて炎とも呼べなくなった、白に近しい黄金色の輝きだ。ただそれだけで恐怖に両目を見開くと、ある者は慌てて武器を捨てて逃げようとし、ある者はその場に跪いて降伏を叫ぶ。すでに遅いのだということにも気づかずに。
 それに侮蔑のこもった眼差しを投げかけて、カイゼルは眩しすぎる光をまとわせた腕を一閃し、ささやくようにして告げた。
 冷たい死の宣告を。
「皆殺しだ」
 その声に追従するようにして、信じ難いほどの高熱と破壊の力を宿した炎の翼が、ふわりと羽ばたいて反乱勢力の兵士たちを押し包んだ。騎士団の者も本能的な恐怖に身をすくませたが、一瞬で巻き起こった銀色の光が結界となって、その破壊と殺戮の奔流から騎士たちを守る。叫びさえ飲み込んで響かせない炎は、外壁を抉り取るように蹂躙して猛り狂った。主の怒りをそのまま表すように、破壊の爪であらゆる命を刈り取りながら。
 それはそのまま、トランジスタで起こった反乱の終焉を告げる狼煙だった。






    



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