8 それは恐怖への序曲


 


 一度心が決まってしまえば、決意は意外なほど簡単に言葉へ変わった。
「僕のような非才の身につとまるかわかりませんし、レヴィアース卿や、カイゼル様にもご迷惑をかけてしまうことになるかもしれませんが……」
 エディオは静かに背筋を伸ばし、目線だけで言葉の続きを促した。下手なことを言って決意を覆されては一大事、というように。
 その沈黙に背を押され、シオンは膝の上で拳を作りながら息を吸い込んだ。碧の瞳がまっすぐにエディオを見つめる。
「このような若輩者でよろしければ、エディオ・グレイ・レヴィアース卿のもとで、よろしくご指導ご鞭撻のほどをお願いしたい次第にございます」
 それはシオンなりの決意だった。『鍵』という言葉の意味はまるでわからないが、これからもカイゼルに従って戦場に出る以上、いつまでも後方に控えているだけの役立たずではいられない。剣を取って前線を駆けることも、魔術を操って戦局を動かすことも出来ないなら、別の力を手に入れてカイゼルの助けになるしかない。シオンはカイゼルの『切り札』なのだから。
 真剣な表情で頭を下げたシオンに、エディオは心から嬉しそうな表情で笑みを浮かべた。
「シオン。それは私の弟子として、正式に軍師補佐となるべく勉強を始めてくれる、と取ってもいいのかな?」
「はい」
「この私の共犯者となって、カイザーの覇業を達成するために尽力してくれると?」
「はい。それが、僕などにつとまるのでしたら」
「……よし」
 そう言って目を細めたエディオの表情は、シオンの語彙では表現出来ないほど複雑なものだった。待ちに待った獲物が姿を現し、自ら罠にかかろうとするのを見守る狩人の表情、と言えば一番近いかもしれない。シオンは不穏な空気を感じて身を引いたが、それより早くエディオの右手が伸び、実に大らかな仕草で『弟子』の肩を軽く叩いた。濃紫の瞳がにこりと笑う。
「いやぁ、よかった。君なら絶対にそう言ってくれると思っていたよ。本で釣っ……決心を促す作戦は正解だったようだね」
「……あの、今釣るって」
「なにを言ってるんだい、気のせいに決まってるじゃないか。――――いや、本当に嬉しいよ。これはすぐさまみんなに知らせなきゃならないね」
「はぁ」
 嬉しそうな表情で笑っている『師匠』を見やり、シオンは目を白黒させながら小さく頷いた。自分などの弟子入りがなぜ嬉しいのだろう、という思いはぬぐいされないが、エディオの喜びようを見ているとそれさえどうでもよく思えてくる。きちんと背筋を伸ばし、弟子らしく神妙な顔でエディオの言葉を待っていると、子供のようにはしゃいでいた軍師はわずかに相好を崩した。
「そうそう、それからね、シオン」
「はい」
「私の弟子となり、エルカベル騎士団軍師補佐の任を目指すに当たって、これだけは絶対に守ってもらいたいことがある」
「……はい」
 シオンは真剣な表情で頷いた。無意識のうちに拳を握り締め、伸ばした背にぐっと力を込める。
 騎士団の入団試験は武人を目指す者の登竜門だが、どれだけ順当に出世していっても軍師の地位にだけはつくことが出来ない。その地位につくが出来るのは、軍師自身や軍務長官、あるいは総大将である騎士団長の目に止まり、専門的な訓練を受けたほんの一握りの人間だけなのだ。守らなければならない規則、知っておかなければならない心得があるのは当然のことだろう。
 だからこそ居住まいを正し、シオンはどこまでも真摯な面持ちでエディオを見つめた。
「力の及ぶ限りどんなことでも守ります。僕は何をすればよろしいんでしょうか?」
「いい返事だ、シオン。その素直さは君の美徳だと思うよ」
 ひどく嬉しそうな様子で何度も頷き、机に手をついて軽く身を乗り出すと、エディオは厳かな表情を作って口を開いた。
「それじゃあシオン。エルカベル騎士団の軍師として、これから私の弟子となる君に大切な決まりごとを教える」
「はい」
「とりあえず、私のことは『師匠』と呼ぶこと」
「はい。…………はい?」
 今までの流れで自然に頷きかけ、シオンはかなりの間を空けてから間の抜けた声を上げた。聞き間違えてしまったのだろうか、と思わず首をひねったが、エディオの表情はこの上もなく真剣だった。呆然とするシオンをよそに軍師の言葉は続いていく。
「私はこれから君の師匠になるわけだからね。君が私のことを師匠と呼ぶのは当然だろう? あ、別にお師匠様でもいいけど」
「……え」
「でもやっぱり、お師匠様よりは師匠の方がそこはかとなく偉そうな感じがするだろう? 私としてはぜひ師匠と呼ばれたいところなんだけど……」
「あの」
「君はどうしたい、シオン? 私は寛大な師匠だからね、弟子である君の意見を尊重するよ」
 二の句が告げない、というのはこういう状況を言うのだろう。エディオなりの冗談かとも思ったが、濃紫の瞳はひどく真剣な光を湛え、無言のままシオンに答えを要求している。本気で『師匠』という呼び方を望んでいるのは明らかだった。 
「……あ、えぇと」
「うん?」
「その……お師匠様、よりは、師匠の方が」
「あ、やっぱりかい? そうだよね、師匠の方が男の子らしい呼び方だしね」
 途端にエディオの顔が笑み崩れた。お師匠様よりも師匠の方がいい、というシオンの言葉がよほど嬉しかったらしい。わずかに眩暈を感じつつ、シオンは慎重な口調で目の前の師匠に呼びかけてみた。
「あの、レ……師匠」
「なんだい?」
「弟子としての決まりごとはそれだけですか? もっと他に、遵守しなければならない規則とか、大切な心得とかは……」
「特にないんじゃないかな。というかそれを決めるのは私だし」
 つまり私の気分次第ってことかな、という妙に晴れやかな言葉を聞き、シオンは今度こそその場に倒れこみたくなった。今さらながら「自分はとんでもない人に弟子入りしてしまったんじゃ」という思いが胸中にわき上がってくる。そんなシオンの内心を知ってか知らずか、エディオは無邪気に笑って両手を打ち合わせてみせた。
「さて、これから色々と忙しくなりそうだね。勉強を始めるなら早いほうがいいし、覚えてもらいたい事柄も山のようにあるし。侍従の仕事との折り合いをどうつけるか、明日にでもカイザーに相談しに行った方がいいかな」
「……」
「あ、そうそう。勉強にはこの部屋を使うことも増えるだろうから、君一人でも入れるような措置を取っておいた方がいいだろうね。とりあえず手始めに軍務長官を脅……じゃなくて、平和的かつ穏便に話をつけないと」
 楽しそうに笑っているエディオを見つめ、世を儚みそうになる意識を引き戻すと、シオンは内心でごく小さな呟きを漏らした。
 恐ろしいことになるかもしれない、と。




「……ああ、そうですか。シオンはそろそろ出てくるんですね」
 他人に聞き取れないほどの小声で呟き、黒髪の魔術師は吹き抜けていく風にそっと微笑みかけた。
「お節介かもしれませんけどね。まあこれくらいは構わないでしょう」
 礼を言うように無人の空間へ頭を下げ、青みがかった銀の瞳を優しく細めると、セスティアルは吹きさらしになっている回廊に足を踏み入れた。まだ冬の気配が濃い季節だが、さすがにエルカベル帝国の中枢だけあって、回廊に面した庭園は目にも鮮やかな緑を湛えている。
「……おや」
 それをなぞるようにめぐらせた瞳が、柱にもたれかかっている人影を捉えて軽く見張られた。
「エステラ? こんなところでなにをしてるんですか?」
「――――セスか。お前こそこんなところでなにをしている? 魔術を使ってどこかを『盗み見』などして」
 呆れたように肩をすくめ、エステラは女性らしからぬ仕草でセスティアルを手招きした。セスティアルも微笑しながら素直に歩み寄る。
 皇帝に謁見しに来たわけではないのか、今日のエステラは略式の騎士服をまとい、艶やかな光沢を持つ黒髪をそのまま背に流していた。腕を組んで柱に背を預けた様も、翠玉の双眸を悪戯っぽく煌かせた表情も、妙齢の女性というよりは生気に溢れた武人のそれを思わせる。普通の男性には敬遠される要素だろうが、セスティアルはエステラの生き生きとした美しさが好きだった。
 銀青の瞳が淡い笑みに細められる。
「別に盗み見していたわけではありませんよ。どちらかというと盗み聞きです」
「威張って言えるようなものでもあるまいに……」
「そうですか?」
「そのとぼけた表情が信用ならないと言っておる」
 ますます呆れた表情を作り、エステラは武人らしく鍛えられた両手でセスティアルの頬をはさんだ。そのままぐぃっと引き寄せて視線を合わせる。
「先ほど、この回廊で別の『第一位階の騎士』に会ったぞ」
「おや、めずらしいこともあるんですね。誰に会ったんです?」
「白々しい。おおかたお前が何か理由をつけて呼んだのだろう? お前を探している様子だったぞ?」
 翡翠色と銀青の双眸が間近で見つめあう。一方は相手の真意を探るように、もう一方は答え方を思案するように見つめていたが、ややあって双方が笑みの形に細められた。
「……別に悪巧みをしているわけでありませんよ、エステラ。ただちょっと、弟のように可愛いシオンのためにお兄さんが一肌脱ごうかと思いまして」
「――――『お兄さん』?」
「ええ、お兄さん。だめですか?」
「それは私に聞くことではなかろう。……まあいい。お前が何を企んでも別に構わないが、あまり『彼』を虐めてやるなよ? お前に遊ばれては少々気の毒だ」
 くすりと喉の奥で笑ったエステラに、セスティアルも花が開くような表情で小さく微笑した。
「わかってます。虐めるつもりは毛頭ありませんよ。――――というわけでエステラ、そろそろこの手を離してもらえませんか?」
「何か問題でも?」
「いえ、私は別に構わないんですが、これではまるで睦言をささやきあう恋人同士のように見えるかな、と思いまして」
「ああなるほど。いっそ本当にささやいてみるか? 私はいくらでも口説き文句が思いつくが」
 冗談めかした言葉を受け、セスティアルは笑いながら遠慮します、と呟いた。頬に添えられていた手を優しく外し、月明かりのような瞳で翡翠色の双眸をまっすぐに見つめる。
「そもそも口説くのは普通男性の方ですよ? これでは逆じゃありませんか?」
「逆? 絶世の美姫顔負けの美貌を誇っておいて何を言うか。身長も細さも私とさして違わぬだろう」
「……うーん、それを言われると微妙に返す言葉がありませんね」
 実際のところ、セスティアルとエステラの身長差は一リート(一センチ)あるかないか、といったところだ。女性にしてはかなりの長身を誇るエステラに対し、セスティアルは小柄ではないもののひどく華奢な体つきをしている。傍目には絶世の美女二人が歓談しているようにしか見えないだろう。
 口元を淡い苦笑に綻ばせ、視線をエステラから広い庭園へ流すと、セスティアルは風がさざめくような声でそっとささやいた。
「この顔は母上ゆずりですから。というか、フィアラートの血筋はたいていこういう顔をしているんですよ。代々の当主の好みが偏っていたのか、血が濃すぎるのかはわかりませんが」
「……そうか。そういえばそうだな」
「役に立つといえば立つんですが、うっかり男性に頬を染められたりするとめげそうになりますね。我が君のように男性的な美貌ならそんなこともないのでしょうが」
 うまくいかないものです、と穏やかに呟き、セスティアルはエステラに眼差しを戻して小さく笑った。
「……そうだな」
 エステラも柔らかく微笑する。ほんのわずかなかげりを押し込めるように。
「まあ、私はお前の繊細な美貌が好きだから別に構わぬがな。むしろお前が筋肉達磨になったら世界的損失だ、せいぜい気をつけてその美貌を保存せねば」
「それはそれで少しばかり微妙ですが。お褒めに預かり光栄ですよ、エステラ」
 視線を合わせて笑みを交わしあい、二人は示し合わせたように広大な庭園へと瞳を向けた。常に庭師の手で整えられているのか、そこでは常緑樹が葉をしげらせ、気の早い花たちが美しさと芳香を競い合っている。かつて流された血など忘れてしまったように。
「……本当に、ここはいつ来てもすごく綺麗ですね」
「そうだな」
「私はここが好きですよ」
「……セス」
「とても、綺麗ですから」
 そこでふいに口をつぐみ、セスティアルはひんやりとした風を楽しむように目を細めた。エステラも無言で風の行き先を追う。
 二人の間に落ちた沈黙を埋めるように、ただいつまでも風だけが吹いていた。






    


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