14 いつかこの手を離すまで


 


「シオン。おめでとう。すごい、弟子、レヴィアース卿の」
 賞賛のこもったカティの言葉に、シオンはありがとう、と照れたように笑いながら目を細めた。それを見やってカティもやんわりと笑う。
 軍師エディオ・グレイ・レヴィアース。それはカイゼルの幼馴染であり、多くの軍師を輩出してきたレヴィアース家の当主であり、騎士団にあって唯一戦闘員ではない第一位階の騎士の名だった。そのエディオに弟子入りしたということは、いずれ彼から軍師の地位を引き継ぎ、知略を用いて騎士団長を補佐する人間になるということだろう。カティは憧憬めいた表情を浮かべ、優しい仕草でシオンの肩に手を置いた。
「いつか、軍師様になる。すごい。助けられる、団長を」
「……そうかな」
「そう。よかった。おめでとう」
 カティは他の誰よりもよく知っていた。シオンがどれだけ自分の無力を恥じ、どれだけカイゼルの助けになりたいと望み、どれだけ足手まといにならないだけの強さを欲していたかを。
 カティと共に剣の稽古に打ち込み、日々確実に腕を上げているシオンだが、戦闘の専門家である第一位階の騎士にはどうあっても敵わない。セスティアルのように魔術を使い、その絶大な力を持ってカイゼルを補佐することもできない。いくら魔術を無効化する特殊能力があるとはいえ、シオンが剣の腕を磨き、その力でカイゼルを助けられる可能性は限りなく低かった。だからこそカティは嬉しく思う。
「シオン、向いてる。軍師様に。がんばれ」
 シオンが『剣』以外の道を見つけられてよかった、と口に出さずに呟き、カティは目の前の友人に薄紫の瞳を向けた。途端にぱっと頬を紅潮させ、シオンは慌てたようにばたばたと手を振り回す。確かに軍師様の弟子にはしていただいたけど、と。
「だけど別に、僕がいつか軍師になることが決まったわけじゃなくてね。その、何ていうか……」
「大丈夫。なれる。シオン」
「えぇっ!?」
「なれる」
 カティが力をこめて断言すると、シオンはますます困ったように頬を赤らめ、えぇっと、と口ごもりながら視線を泳がせた。その瞳が庭園をなぞってカティに戻り、やがてひどく柔らかな苦笑に細められる。相手の言い分を否定するわけでも、自分の意思を殺して迎合するわけでもない、ただ優しさと穏やかさをいっぱいに湛えた表情で。
「……なれる、かな?」
「なれる。シオン、頭いい。軍師様、なれる。絶対」
「そんなことないと思うけど……うん。でも、カティがそう言ってくれるならがんばってみるよ」
 まずは色々勉強しなくちゃならないし、と微笑交じりにささやき、シオンは地面に座ったまま背後の木にもたれかかった。ふいにゆるやかな風が吹きぬけ、二人の髪と汗ばんだ肌をひそやかに撫でていく。その感触にふわりと笑い、落ちかかってきた薄茶色の髪をはらうと、シオンは隣に座っている友人に翳りのない笑みを向けた。
「それに、カティに置いて行かれたくないしね」
「……おれに?」
「うん。カティは強いから、多分すぐに高位の騎士に昇進できると思う。……カティがいつか第三位階以上の騎士になった時、僕がカイゼル様のお情けで身分を買ってもらった平民にすぎなかったら、公式の場とか人前とかで対等に話せなくなりそうだし」
「……」
「だから、カティが昇進するのに合わせて僕もがんばらないと。人前でもちゃんと話せる友達同士でいたいしね」
 当たり前のように言い切ったシオンを見つめ、カティは驚いたように薄紫の双眸を見開いた。
 すぐに昇進できるだろう、というシオンの言葉は、先ほど同僚の騎士たちに言われたものとまったく同じだった。そうだというのに、シオンの表情にはカティに対する嫉妬も、生い立ちに対する侮蔑も、相手を慰めることで得られる優越感も滲んでいない。シオンの気性は誰よりもよく理解しているつもりだったが、こうやって当たり前のように投げかけられる優しさに、ふとした瞬間見せられる好意に、カティは半年以上が経った今でも慣れることができなかった。
 シオン・ミズセという名の少年は、これで生きていけるのかと心配になるほど優しい。それは上の立場から向けられる同情や、憐れみをこめて差し伸べられた手とは違う、カティが今まで出会ったことがない種類の優しさだった。シオンはカティを対等な存在と見なし、いつか彼に置いていかれることを恐れている。ごく自然にカティを認め、その力を賞賛し、自分もそれに見合うだけの努力をしなければならないと思っている。カティは元戦闘用の奴隷だというのに。ただそれだけで侮蔑の対象となり、時には石を投げられ、忌々しいと舌打ちされる下層の人間だというのに。
 その優しさは驚くほど真摯で、滑稽なほど懸命で、泣きたくなるほどかけがえのないものだった。
「……シオンは」
「ん?」
「シオンは、偉い。おれより。置いていかれる、ない。置いていかれる、おれの方」
 カティがたどたどしく告げた瞬間、碧色の瞳が大きく見張られた。
「カティ?」
「うん?」
「えっと。それは、ないと思うよ?」
「え?」
「カティの方が強いし、偉いよ。きっとカティの方が早く昇進して、あっという間に高位の騎士になれると思う。稽古つけてもらいながら、年は変わらないのにカティは強くていいな、ってよく思うし。……あ、でも」
 そこで一度言葉を切り、シオンは自分の発言を恥じるように淡い苦笑を浮かべてみせた。
「僕とカティじゃ努力した量が違うから、いいな、っていうのは筋違いかな」
「……」
「カティくらい強くなりたい、っていうのは多分……っていうか絶対無理な気がするけど、僕ももう少しがんばって稽古しなきゃだめだよね。あんまり弱いとカイゼル様に見捨てられそうだし……って、カティ?」
 困ったように沈黙しているカティに気づき、シオンは薄茶色の髪を揺らして小さく首を傾げた。碧の瞳に心配そうな光が宿る。
「どうかした? ……えぇと、僕、また何か妙なこと言ったかな?」
 だったらごめん、と全身で主張しているシオンを見やり、カティは我に返って首を左右に振った。ほっとゆるんだ表情をまじまじと見つめ、自分も唇の端を持ち上げると、大切な何かを抱きしめるようにして微笑を浮かべる。
「……やっぱり」
「え?」
「やっぱり、シオン、変」
「えっ? ……えぇ!?」
 いきなり友人に変だと断定され、シオンは一瞬の間を置いてから驚愕の表情を作った。それを見やってくすくすと笑い、カティは騎士らしく身軽な動作でその場に立ち上がる。
 シオンはおかしい。いっそ奇妙なまでに優しく、暖かい。
「シオン、友達」
「……え」
「なれて、よかった」
 だからカティはシオンを裏切らないだろう。シオンがこの優しさを持ち続ける限り、まっすぐな眼差しで笑っている限り、カティは持てる力のすべてを使ってシオンのために生きるだろう。たとえ誰かに「それは友情とは言えない」と罵られても。「奴隷はどこまでいっても奴隷だ」と蔑まれても。
 シオンがこうやって笑い返してくれる限り、カティははじめて得た友人のためだけに剣を振るうだろう。
「……うん」
 逆光になったカティの顔を眩しげに仰ぎ、シオンは万感の思いをこめて言葉を続けた。カティが何を思っているのか、自分の言動が相手に何を与えたのか、最後の最後まで理解することはできないままに。
「うん。僕も、カティと友達になれてよかったよ」
「アポロも」
「うん、もちろんアポロも」
「友達、三人」
「うん」
 視線を合わせて短く笑い合い、二人はほぼ同時に抜けるような青空へと視線を放った。宙を翔けていくアポロの姿を確かめ、まるで焦がれるように薄紫の瞳をすがめると、カティは座ったままのシオンへそっと片手を差し伸べる。シオンも笑ってその手を取り、鍛えられた腕に引っ張られてゆっくりと立ち上がった。
 ふいにバサッ、という羽音が響き、アポロがどこか嬉しそうな様子で二人のもとに戻ってきた。シオンがもう一方の腕を掲げ、忠実な友人を迎え入れるのを見つめながら、カティは声なき声で胸中に呟く。いつかこの手を離すまで、時代の終わりが始まるまで、どうかこの穏やかな時間が続きますように、と。




 鍛錬場を後にし、屋敷の裏口に向かおうとしたところで、ディライトの称号を持つ剣士はぴたりと足を止めた。初春の柔らかな風が吹きすぎ、綺麗に整えられた緑の生垣を軽くそよがせていく。思わず頬がゆるむような光景だったが、ヴェルは冷たく凪いだ表情でそれを一瞥し、腰に下げている己の剣に手を這わせた。
 次の瞬間、静寂の中を白銀の光が駆け抜け、あっけないほど見事に生垣の枝を両断した。庭師が見たら腰を抜かしかねない暴挙だったが、それが無意味な行動ではなかった証拠に、一拍遅れて金属同士がぶつかり合う澄んだ音が響きわたる。底の見えない漆黒の瞳がわずかに細められた。
「……で、貴様はそこで何をしている、カイゼル?」
「それはこっちの台詞だ。いきなり剣を振り回したくなるほど退屈してるのか、ヴェル?」
 鞘から半分ほど剣を引き出し、その部分で胴を狙った一撃を受け止めたまま、この屋敷の正当な持ち主であるカイゼル・ジェスティ・ライザードは薄く微笑した。執務の途中で出てきたのか、黒を基調とした部屋着を身につけ、その上にくくっていない榛色の髪を流している。穏やかな風が焔を思わせるそれをなびかせていった。
 あっさりした態度で剣を引き、飾り気も何もない黒塗りの鞘に収めると、ヴェルは主君に勝るとも劣らない冷ややかな笑みを浮かべてみせた。
「そうだな、退屈だ。俺に稽古をつけさせるなら、少なくともあと三十人は使える奴を回せ。でないとたとえ稽古でも殺すぞ?」
「退屈するのは構わんが、部下は殺すな。騎士一匹育て上げるのにどれだけの手間がかかると思ってる」
「興味ないな。雑魚はどこまでいってもしょせん雑魚だろう」
 まるで無機物を話題にしているような口調で言い切り、ヴェルは夜闇を思わせる瞳で鍛錬場の方角を見やった。
「まあ、そこそこ使える奴が一人はいたがな」
「カティ・リーズか」
「ああ。まだまだ甘いが、鍛えればすぐに第三位階の騎士程度にはなるだろう。退屈しのぎに遊んでやってもいい」
「好きにしろ。ただし、カティ・リーズは殺すなよ。そいつはシオンの指南役だ」
 笑みさえ浮かべてあっさりとうそぶいたカイゼルに、ヴェルはどこか嘲るような仕草で片方の眉を持ち上げた。もともと怜悧に整った面差しの持ち主だが、そういった表情をすると特に造作の冷ややかさが際立って見える。
「シオン、か。どういう風の吹き回しだ?」
 貴様がただのガキにそこまで入れ込むとは、と言外に告げてくるヴェルを見やり、深い青の双眸をわずかに細めると、カイゼルはどこまでも傲慢な仕草で唇の端を持ち上げた。くだらないことを聞くな、というように。
「何だ、興味があるのか?」
「あるわけないだろう」
「だったら構うな。お前に必要なのは戦場の空気と、退屈しないための命のやり取りと、腰に下げた剣を振るう機会だけのはずだ。違うか、ヴェル?」
 揺るぎない鋼のような声を受け、ヴェルは口元に湛えた微笑をわずかに深くした。誰かに従うつもりも、膝をつくつもりも、忠誠を誓うつもりもないが、この焔のような騎士団長の麾下でなら剣を振るってもいいと思える。そんな思考が脳裏をよぎるのは、決まってカイゼルの口からこの手の台詞を聞いた時だった。
「当然だ。お前が俺からそれを奪わぬ限り、俺はお前のもとで剣となる。そういう『約束』だからな」
「だったらその剣を温存しておけ。――――今までは大人しくしていたようだが、直にあの『影』が動き出す。そうすればお前が退屈することもなくなるだろうよ」
「そうか」
「ああ」
 それだけのやり取りを最後に、カイゼルはすでに午後の訓練を終えたはずの鍛錬場へ、ヴェルは彼専用となっている屋敷の裏口へと歩き出した。騎士団長と第一位階の騎士とは思えない会話だったが、そのあっけなさはヴェルに不快感を与えることも、冷ややかな侮蔑を掻き立てることもない。ほんのわずかに瞳を細め、光のふりしきる初春の空を仰ぐと、至高の剣と称えられる狂剣士は誰にともなく呟いた。
「腐りきった皇室を支える、あの特殊な『影』か。おもしろい」
 口元をひんやりした笑みがかすめ、その整った造作にえもいわれぬ凄みを添えた。動乱の気配を感じ取り、流される血を期待して笑う鬼神のように。
「それが、約束だ。あまり俺を退屈させるなよ、騎士団長」






    


inserted by FC2 system