16 言の葉は懺悔に似ていた


 


 昼間の日差しはだいぶ暖かくなったが、夜になると冬の寒さが勢いを増し、帝都エリダの空気をひんやりと冷たいものに変え始める。しつこく居座り続ける冬を押しのけ、春が季節の支配権を握るには、少なくともあと十回以上夜明けを迎える必要があるだろう。今年の冬は寒かったですからね、と口の中だけで呟き、冷たくなってしまった指先に息を吐きかけると、レイター・セスティアル・フィアラートは綺麗な色彩の瞳を細めた。中庭にあつらえられた灯火が揺れ、不夜城スティヴィーアの中庭と回廊に淡い光を投げかける。
「……影が」
 肩から滑り落ちた髪を指先ではらい、セスティアルは目の前に立つ人物にほのかな笑みを向けた。
「動き出したみたいですね。……もしかしたら、今回は影が動かないまま終わるのではないかと、少しばかり楽観的な予想を立てていたのですが」
「別にどうでもいいけど、久しぶりに会った同僚への第一声がそれなわけ? こんばんはとか、元気してたとか、そういうあいさつは君の頭の中に入ってないの?」
 和やかにあいさつされても腹が立つけど、という相手の言葉を受け、美貌の魔術師は困ったように首を傾げてみせた。繊細な造作が儚げに微笑むのを見やり、回廊の列柱にもたれかかった青年は軽く眉をひそめる。レイターの機嫌が降下したためか、今までゆるやかだった風が慌てたようにざわめき、鮮血を思わせる赤い髪をさらりと揺らしていった。
 青年の名はレイター・ルイ・リンデット。セスティアルと同じ『最高位魔術師』の一翼であり、第一位階の騎士に名を連ねる武人であり、皇帝ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアの相談役である青年は、中庭から自分を見上げてくる同僚に嫌そうな眼差しを向けた。緋色の瞳がどこか禍々しく光を弾く。
「なんでそこで黙るかな、君は。……まあ」
 もたれていた柱から身を起こし、ルイは回廊と中庭をつなぐ短い階段に足を下ろした。二段ほど下りたところで足を止め、青みがかった銀色の双眸をまっすぐに見下ろす。
「ジェリーレティアで会った時は、次に会うのは戦場のただ中だと言って別れたからね。これは一種のおまけみたいなもので、厳密に言えば君との再会じゃないのかもしれないけど」
「そうですね。そもそも、同じレイターの称号を持つ第一位階の騎士同士が、半年も一年も顔を合わさずに過ごすのは難しいと思いますよ。私たちは地方の守りを任されているわけじゃないんですから。……たとえ」
 そこで一度言葉を切り、セスティアルは悲しげな表情で小さな笑みを浮かべた。
「私たちが敵同士であったとしても」
「そうだね」
 軽い仕草で肩をすくめ、ルイはぼんやりと浮かび上がる薔薇の茂みに視線を向けた。ゆらゆらと揺れる灯火の下、薄い黄色に色づいた薔薇がけむるように咲き誇っている。『朝靄の露』と呼ばれる早咲きの品種だ。貴族の夫人に絶大な人気を誇る薔薇だが、ルイは嫌なものを見た、と言わんばかりに視線をそむけ、中庭に立っている同僚に眼差しを戻した。
 なぜこんなところにいるのか、スティルヴィーアの中庭で何をしているのか、そんな当たり前な疑問を投げかけることはしない。お互い様だと思うからだ。
「確かに僕たちは敵同士だ。表向きは同じ第一位階の騎士で、共に魔術を学んだレイターで、仲のよかった幼馴染だったとしても」
「私が我が君に、貴方が皇帝ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアに忠誠を誓った瞬間から、私たちは永遠に同じ道を歩くことのできない存在になった。その事実を受け入れたのだから、戦場でまみえた時は何があっても容赦はしない。……私たちが交わしたのは、そういう約束でしたね」
「ああ。……でも、ここはまだ戦場じゃない。だから忠告しておいてあげるよ」
 もう一段だけ階段を下り、やや低い位置にあるセスティアルの顔を覗き込むと、ルイは内緒話をするようにそっと声を低めた。
「『闇』に狙われているのは君だよ、セスティアル。カイゼル以外であの『闇』を抑えられるのは君しかいない、って言った方が正しいかもしれないけど。……ああでも、あの狂剣士なら可能かもしれないね。『闇』と戦うのも、『影』を抑えるのも」
「ヴェルのことですか?」
「そう。つまりはそういうことだよ、セスティアル。最強のレイターである君か、最強の剣士であるヴェルでなきゃ、本気になったあの『闇』は抑えられない。腐りかけたこの国を支えてきたのは、あの『闇』をはじめとした『影』たちなんだから」
「ええ、わかっています」
 どこまでも優雅な仕草で頷き、セスティアルは形のよい唇の端に淡く微笑を滲ませた。それを見やってルイは眉をひそめる。
 世界を形作る魔力に愛されているためか、その魂のありようが外見に反映されるためか、レイターの称号を帯びる者には整った容姿の所有者が多い。それはルイも例外ではなく、鮮血を思わせる赤い髪といい、紅玉のように透きとおった深紅の瞳といい、女性的に見えない程度に繊細な造作といい、晩餐会に顔を出せば男女問わず虜にできるだけの美しさを誇っていた。
 そのルイの目から見ても、レイター・セスティアル・フィアラートの容姿は不自然なほど綺麗に映るものだった。
「……君さ」
「はい?」
「時々こっちが死にたくなるような顔で笑うよね」
「は? ……そうですか?」
 きょとん、としか言いようのない表情で目を見張り、セスティアルは光をはらんで輝く長い睫毛を瞬かせた。整った顔をわずかにしかめ、ルイは苛立ちのこもった仕草で鼻を鳴らす。
「そうだよ。……君は全部わかった上でそうやって笑ってるんだろうけど、見てるこっちからすると腹が立つことこの上ないね」
「それは買いかぶりですよ、ルイ。私だってすべてわかっているわけじゃありません」
「どうだか」
 君は昔からそうだし、と嫌味のこもった声で呟き、ルイは赤い瞳をすがめながら言葉を続けた。
「少なくとも、君ならわかってるはずだよ。『影』が動き出したことの意味も、僕たちレイターが存在する理由も。僕たちに許された、選択肢と呼ぶにはあまりにも少なすぎる道も」
「……」
「全部わかってるくせに、君は四玉の王の望み通りに動くわけ? あんな身勝手な贖罪の約束のために、自分自身を駒にしてまで」
 台詞の内容はセスティアルを責めるものだったが、ルイの口調と表情は違和感を覚えるほど淡々としていた。言っても無駄だとわかっているからだ。
 案の定、セスティアルは硝子細工を思わせる表情で小さく笑い、ゆるく首を振りながら違いますよ、と呟いた。
「四玉の王のためじゃありません。我が君のためです」
「……うわ、言うと思った」
「当たり前じゃないですか。私が歴史の流れの通りに動くのは、四玉の王の望みが我が君の目的と重なっているからです。四玉の王のために我が君に仕えるのではなく、我が君のために四玉の王の望みを叶える。……その結果、この餓えた美しき荒野が王の願い通り平和になろうと、定められた道筋から外れて滅亡しようと、私は別に構わないと思ってるんですよ、ルイ」
 セスティアルの言葉はどこまでも柔らかかった。ただ銀青の瞳だけが揺るぎない光を湛え、やや高い位置にあるルイの目を静かに見つめる。
「それに、私は異世界から来た覇業の『鍵』が……シオン・ミズセという名の少年が、とても好きですから」
「……『鍵』、か」
「ええ。ですから、シオンと我が君に刃を向けることは私が許しません」
 ふいに吹き抜けていく風が勢いを増し、セスティアルの黒髪とルイの赤毛を宙へ巻き上げていった。薄い黄色の花びらが引きちぎられ、明かりに照らされた中庭にはらはらと零れ落ちてくる。どこか夢のように儚い光景の中、美貌の魔術師は口元に微笑を滲ませ、首を傾げながら幼馴染の顔を仰ぎ見た。
「それが貴方であろうと、レスティニアであろうと、『闇』であろうと、我が君に敵対するなら私が消します。……貴方ならそれくらいわかっているでしょうに」
「……そうだね。もちろんわかってるさ、君がそういう人だってことくらい」
 吐き捨てるような口調で呟き、赤い髪を揺らして首を振ると、ルイはきつく眉をひそめたままセスティアルに顔を寄せた。青みがかった銀の瞳を睨みつけ、挑みかかるような口調でだけど、と続ける。
「僕たちに残された道はあまりにも少なく、許された力はあまりにも乏しい。望みを貫き通すことが難しくなるくらいね。それでも君は躊躇しないんだろうけど、本当にそれでいいの? ……また繰り返しても、君は後悔しないわけ?」
「しませんよ。貴方だってそうでしょう、ルイ?」
「……予想通りの答えをありがとう。じゃあ、ちょっとこれから馬鹿馬鹿しい嘘をつくから、いつもみたいにさらっと聞き流してよね」
 頼まなくても聞き流すんだろうけど、と感情のこもっていない声でささやき、ルイは黙ってたたずんでいるセスティアルから距離を取った。まるで泣き声のような風が吹きぬけ、いたるところに飾られた灯火をゆらめかせていく。風のいたずらか、投げかけられる光の気まぐれか、幼馴染を見つめるルイの表情がほんの一瞬だけ影になった。
「僕はね、セスティアル」
「……」
「君と、リチェルが。これからの戦いで、死ななければいいと思ってるよ」
 あらゆる表情を影に溶かして、微笑もしかめ面も見せないまま。赤い髪をした細身の魔術師は、奇妙なほど淡々と響いていく言葉を口の端に乗せた。
 ひどく真摯な祈りのように。
「君たちがずっと、生きていられたらいいって。僕はそう、思ってるよ」
 灯火を揺らしていた風がおさまり、外れていた光が魔術師たちのもとへ戻ってきた。あらわになった表情は数秒前と何一つ変わっていない。不機嫌ささえ垣間見える無表情のまま、赤毛のレイターはそっけない仕草で肩をすくめ、静かに微笑んでいるセスティアルから視線をそらした。
「以上、嘘終了。ここから本音。……もしも戦場で、君が『闇』に殺されそうになっているのを見つけても、僕は絶対に君のことを助けない」
「ええ」
「それどころか、場合によっては僕が君やリチェルを殺す」
「ええ、わかっています」
「君だって僕のことを消すんだろ?」
「消しますよ。我が君とシオンに刃を向けるなら、その瞬間から誰であろうと私の敵です」
 淡々とした口調で言葉を交わしあい、セスティアルとルイはよく似た表情で笑い声を零した。
 歩むべき道こそ違えたが、結局のところ二人の魔術師は似た者同士だ。何を優先するべきか、そのために何を削るべきか、あえて言葉にしなくてもよく理解している。わずかな痛みが胸を刺すほどに。
「……じゃあ、無駄話はこれくらいにして僕は帰るよ。せいぜい殺されるまで死なないように気をつけるんだね、セスティアル」
「ええ。ルイも元気で」
「……それから」
 まるで叩きつけるように言葉を重ね、ルイは紫のマントを翻しながら踵を返した。赤い髪がふんわりとなびき、暗がりの中にどこか優しい軌跡を描き出していく。
「君と、最後に話ができてよかったよ。セス」
「……それも嘘、ですか?」
「当たり前だろ」
 数段しかない階段を上りきり、吹きさらしになった回廊に足を踏み入れると、ルイは首だけで振り返りながら馬鹿にしたように笑ってみせた。セスティアルも透きとおった表情で小さく微笑する。
 その笑みが最後だった。
「――――私も」
 遠ざかっていくルイの背を見やり、セスティアルは風に紛れてしまうほどささやかな声で呟いた。
「貴方とレスティニアが、死ななければいいと思いますよ」
 いつか戦場で再会した時、セスティアルはルイを排除するためにためらいなく力を振るうだろう。それは疑う余地のない現実だったが、友が死ななければいいと思う気持ちも真実だった。
 そのままゆっくりと首を振り、ごく自然な動作で中庭の一角に視線を放つ。灯火の届かない闇の中、静寂に寄り添うようにして立つ影に目を留めると、セスティアルは稀有な美貌をゆるめてふわりと微笑した。
 その気配を感じ取ったのか、影はどこか楽しげな風情で片腕を持ち上げ、セスティアルに向かってひらひらと手を振ってみせた。まるで遠慮するように風が吹き、ぞっとするほど黒い髪を暗がりの中に散らしていく。それはセスティアルの髪とよく似た色彩だったが、よく見れば彼のそれよりずっと暗く、危うく、禍々しい『黒』に染め上げられていた。
 次の瞬間、キシリと。本当にかすかな音を立てて世界が軋んだ。
「……何かご用ですか?」
 小さく瞳を細めはしたが、セスティアルの口元に浮かぶ微笑はわずかにも薄れなかった。それを見やって低く笑い、黒をまとった影はひどくあっさりと彼に背を向ける。別に、というさらりとした声が響いたのと、気軽な動作でもう一度手が振られたのと、あっけないほど鮮やかにその気配が消失したのは、ごく微量な差こそあれほとんど同時だった。
「――――ルイが言っていた通りみたいですね」
 ふぅ、と軽く息を吐き出し、わだかまっている闇から視線を外すと、セスティアルはルイが立っていた石の階段に足をかけた。
「戦うのも、殺すのも、あまり好きではないんですが」
 息をひそめていた風がにわかに活気づき、魔力の支配者に媚びるようにして黒髪をそよがせた。それをなだめるように指先で撫で、セスティアルはどこまでも優雅な動作で階段を上っていく。
 銀青の瞳が悲しげな笑みに細められた。
「それも、仕方がないことなのかもしれませんね」
 ねえルイ、と唇の動きだけで友を呼び、セスティアルは光に煌く回廊の天井を仰いだ。ゆるゆると渦巻く風に笑いかけ、紫のマントを翻しながら白い床を歩き始める。
 ささやくように零された言葉は、どこか人が礼拝堂で呟く懺悔に似ていた。






    


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