6 眠らぬ城の舞踏会


 


 暮れなずむ空に視線をやり、カティ・リーズは頬を伝っていく汗をぬぐった。
 中央大陸の中でも、帝都付近では春と秋が長く、夏と冬は一月から二月程度しかない。短い冬が終わりつつあるためか、太陽はいまだ地平線の端に引っかかり、ライザード家の鍛錬場を赤い光で照らし出していた。これから少しずつ昼の時間が長くなり、それにともなって時折ぶり返してくる寒さも和らいでいくのだろう。ほんのわずかに目を細め、カティは右手に下げた剣を腰の鞘に戻した。
 カティの故郷である外縁大陸は、過ごしやすい気候の中央大陸とは異なり、地域によって温度差が激しい過酷な場所だった。夏の空気はじっとりと湿り、冬の風は身を切るように冷たく、そこに住まう人々を脅かしていたのを覚えている。故郷を離れたのは五歳の時だが、全身を苛む真冬の寒さと、それゆえに美しかった原色の夕日は、十年以上が経った今でも薄れることなく脳裏に刻み込まれていた。
「……夕日」
 誰にともなく呟き、ほんの一瞬だけ表情をかげらせると、カティは一人での稽古を切り上げて鍛錬場を歩き始めた。
 カティは参加することができないが、もう少し経てば夕日の下から鐘が鳴り響き、不夜城スティルヴィーアで開かれる舞踏会の始まりを告げるはずだった。ほんの数日前、優しい友人が疲れた様子で嘆息し、剣の稽古より踊りの練習の方が気を使うのは何でだろう、と零していたのを思い出す。カティの口元にごく小さな微笑が浮かんだ。
 カティの立場が解放奴隷である以上、皇宮を直接警備する役目に就けないのは当然だが、友人が見たこともないほど豪華な衣装に身を包み、貴婦人たちと踊っている様子を見られないのは少しだけ残念だった。いつか自分の前でも踊りを披露してもらおう、と胸中に漏らし、その思いつきに淡く笑みを浮かべると、カティは西の空でぐずぐずしている太陽に眩しげな目を向けた。
 まるで血のように燃えさかる太陽は、かつて故郷で幾度も目にし、記憶の中に刻み込まれた夕日に痛いほどよく似ていた。薄くたなびく雲を真っ赤に染め上げ、すべての色彩と輪郭をあいまいにし、世界中を自分と同じ光で塗りつぶしてしまおうとしている。空を横切っていく鳥の鳴き声と、遠くの屋敷から響いてくるかすかな喧騒以外、カティがこの空間に一人きりではないと証明するものは何一つ存在していなかった。恐怖を感じることはなかったが、自分が以前は知らなかった『さみしさ』を感じていることに気づき、カティはとまどったように淡い色の瞳を瞬かせる。
「シオン。舞踏会、今ごろ」
 だから仕方ない、と苦笑の滲んだ声で呟き、カティはやや癖のある髪を揺らして首を振った。そのまま広い鍛錬場をつっきり、ライザード家の敷地内に構えられた騎士用の宿舎に向かう。明日の稽古に備えて体を休めなければ、と思いながら。
 カティには誰にも告げたことのない目的があった。本来なら胸に秘めるだけでもおこがましい、自分でも恥ずかしくなるほど大それた目的だが、ディライトであるヴェル・シルファの目にとまったことで、困難ではあっても努力すれば届く程度に距離は縮まっている。その目的を達成するため、カティは暇さえあれば剣をふるい、今まで以上に合同訓練や演習に打ち込み、騎士団内での位階を上げることに力のすべてを費やしていた。努力の甲斐あって、少し前に第十位階から第九位階への昇進が叶い、その証である水色のマントを手渡されている。
 腰に下げた剣の柄に指を這わせ、カティはその口元に柔らかな笑みを滲ませた。
「おれも、がんばる。……から、がんばれ。シオンも」
 相手のドレスを踏んだらどうしよう、と苦悩していた友人の姿を思い出し、カティは風に溶けてしまうそうな声でささやいた。
「舞踏会、終わって、帰ったら。稽古の時、また……」
 カティがシオンと共にいられるのは、午前中に組まれている剣の稽古と、その合間にもうけられている短い休憩の時間だけだった。寂しくないと言えば嘘になるが、休憩の間にたどたどしい言葉で近況を告げたり、シオンの話を聞いたりして過ごす時間を、カティは言葉では言い表せないほど大切に思っていた。舞踏会が終わり、シオンが皇宮から戻ってくれば、またそうやって過ごす他愛のない日常が帰ってくるのだと。カティは幼子のような純粋さで、何よりも強くそう信じていた。
「シオン、話聞く、舞踏会の。帰ってきたら。楽しみ」
 一つ一つ確認するように呟き、カティは小さな笑い声を立てた。その瞬間、周囲がずいぶんと暗くなっていることに気づき、足元に落としていた視線を西の空に向ける。
 ようやく夜に支配権をゆずり渡す気になったのか、真っ赤に熟れた太陽が最後の光をまき散らし、帝都の背を守るなだらかな山脈に沈んでいこうとしていた。それはひどく美しい光景のはずだったが、なぜか背筋が寒くなるほどの不吉さを感じとり、カティは自分でも無意識のうちに薄紫の瞳を凝らす。ここからでは駆けつけるどころか見ることさえ叶わない、山脈に守られた皇宮スティルヴィーアのある方向へ。
「……シオン」
 ぽつりと零された呟きは、気まぐれに吹き抜けた風に散らされ、カティ自身の耳にさえ届かないまま消えていった。



 
 『薔薇の間』と呼ばれる大広間は、濃淡をつけた薄紅色の大理石を敷きつめ、複雑な幾何学模様を描き出した床が特徴の、荘厳さより優雅さを感じさせる美しい場所だった。
 薄紅色の床と言っても、目がチカチカするようなピンクではなく、蘇芳(すおう)を薄めた渋みのある色合いに近い。数日前から念入りに磨き上げられたそれは、いたるところに灯された燭台の明かりを映し、まるで瀟洒な螺鈿細工(らでんざいく)のように煌いていた。
 大理石の床を照らし出しているのは、『薔薇の間』という名前が示すように、薔薇の形を模した硝子作りの燭台たちだった。どんな方法で作り出したのか、透明な蔓薔薇の枝が絡み合い、中でゆらめく焔色の光を守っているものもあれば、硝子の薔薇そのものが光を閉じ込め、水が移ろうように明るさを変えているものもある。普通の炎なら硝子を溶かしてしまうだろうが、魔術で灯された光は周囲を苛むほどの熱を持たないため、透明な薔薇の花と寄り添いながら大広間全体を柔らかく照らしていた。
 炎に似た暖色の光と、その輝きに包まれた大広間を見やり、シオンは思わず感嘆の溜息を吐いた。
 薔薇の間の装飾は目を奪われるほど美しかったが、そこに集った人間たちの装いもそれに劣らないほど見事だった。色とりどりのドレスに身を包み、眩しい装飾品を煌かせて笑う貴婦人たちや、腰に精緻な細工の剣を下げ、鮮やかなマントを足元まで垂らした若者たちが、それぞれ手にしたグラスを傾けながら会話に花を咲かせている。
 主賓である皇帝がまだ入場していないため、その場に満ちている喧騒には取りとめがなく、場所によっては少々騒がしいと感じられるほどだった。だが、セレニア・ルイス・シェインディアを伴ったカイゼル・ジェスティ・ライザードの姿に気づいたとたん、今まで会話に夢中になっていた貴族たちがぽかんとした表情で口をつぐむ。
 ずっしりとした黒い繻子の、光の加減によって複雑な模様の浮かび上がる長衣に、緋色に染め上げられた天鵞絨(ビロード)のマントを羽織ったカイゼルは、他の貴族たちとは一線を画す華やかな雰囲気を醸し出していた。腰に佩いた黄金作りの長剣と、豪奢でありながらどこまでも頑丈なブーツとが、大貴族の当主というより地上に降り立った武神のような空気を際立たせている。そのカイゼルの横に、白を基調とする衣装に身を包んだセレニアが並ぶと、ただそれだけで画家が精魂込めて描いた一幅の絵のようだった。
 やっぱり僕は場違いな気がする、と胸中にひとりごち、シオンは小さく首を傾げながら不思議そうに呟いた。
「……まだ始まっていないんですね。皇帝陛下も来てらっしゃいませんし」
「ええ。陛下のご挨拶の後にようやく舞踏会が始まるの。今は単なる雑談の時間、といったところね」
 シオンの呟きが聞こえたのか、セレニアが長い髪を揺らして背後を見返り、どこか悪戯めいた表情でふわりと微笑した。とたんにシオンの頬が赤く染まる。
 セレニアがまとっているのは、裾にいくにつれて青みがかっていく白絹の、胸元と背中が大きく開いた袖のないドレスだった。形そのものはひどくシンプルだが、上半身に透明な宝石がびっしりと縫いとめられ、燭台の明かりを弾くたびにきらきらと光を散らしている。むき出しの肌の部分に、やはり透明な宝石で作られた大振りの首飾りと、手首をぴたりと覆う同じ意匠の腕輪をつけ、ゆるく巻いた髪には水晶細工の花を挿していた。
 すごく綺麗ですけど露出度が高いですっ、と内心で絶叫し、シオンは年頃の少年らしい初々しさで視線をそらした。その視線がどこか楽しげな主君のそれとぶつかり、なぜかこの場から逃走したくなるほどのいたたまれなさがこみ上げてくる。
 シオンの内心などすべてお見通しなのだろう、唇の端にからかうような笑みを乗せ、カイゼルは挙動不審気味な己の侍従に深青の瞳を向けた。
「何だ、シオン? 舞踏会が始まる前にもうのぼせたのか」
「いえっ……あの、違います! 大丈夫ですっ!」
 貴方の愛人に見惚れていました、と告白するわけにもいかず、シオンは不自然なまでに背筋を伸ばして首を振った。
「あ、そういえば、シェラナ様とフィオラ様はまだいらしてないんですか? このあたりにはいらっしゃらないみたいですけど……」
「ああ、あいつらは共の者と後から来る。あれでもこういう場には慣れてるからな、いちいち俺やセレンが面倒を見てやる必要もないだろう」
 非常に強引な話題の変え方だったが、カイゼルは比較的すんなりと調子を合わせてくれた。カイゼルの優しさゆえというより、たまたまシオンをからかい倒すような気分ではなかったのだろう。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、シオンは軽く碧の瞳を見開いた。
「後からいらっしゃるんですか?」
 まだあんなにお小さいのに、とためらいがちに続けたシオンに、カイゼルは微笑とも嘲笑とも取れる表情で唇の端を持ち上げてみせた。
「当然だろうが。あいつらは俺の子だ」
 カイゼルが口にしたのはそれだけだったが、シオンがそこに込められた真意を悟るには十分だった。
 フィオラ・レオン・シェインディアとシェラナ・カイン・シェインディアは、名乗っている『シェインディア』という家名からもわかるように、公的にはカイゼル・ジェスティ・ライザードの跡継ぎとして認められていない。上流階級の家ではよくあることだが、一般的な大貴族の当主と違い、カイゼルはセレニア以外に情を交わす女性を持たなかった。他に正妻として娶るべき女性がいるからでも、跡目争いを避けるという理由があるからでもなく、正式な婚姻関係を結ばないことでセレニアと子どもたちを守っているのだ。カイゼルを秩序の壊乱者と見なし、隙あらば亡き者にしようとたくらむ敵対者の手から。
 だからこそ、カイゼルは何のためらいもなく子どもたちを突き放し、自分が守ってやらなくても大丈夫だという姿勢を崩さない。胸が痛くなるほどきっぱりとした愛し方に、シオンは体の奥から暖かな思いが湧き上がってくるのを自覚した。
「……そうですよね。フィオラ様とシェラナ様は、僕よりもずっとしっかりしてらっしゃいますし」
 照れたように笑うシオンを見やり、彼らしい傲岸な態度で鼻を鳴らすと、カイゼルはあっさりした口調で当然だ、と言い捨てた。その横でセレニアが耳に心地よい笑い声を立てる。
 その場の雰囲気が柔らかくゆるんだ瞬間、シャリン、という鈴の音にも似た音が響き、シオンの眼前で紫色のマントが揺れた。
「……我が君」
「セスか」
 すでにその存在に気づいていたのか、カイゼルは泰然とした動作で視線を流し、歩み寄ってきた腹心の部下に鋭い笑みを見せた。それを青みがかった銀の瞳で受け止め、美貌の魔術師は淡く微笑しながら略式の礼を取る。
「セスティアル様!」
「まあ」
 嬉しそうに声を上げたシオンと、頬に手を当てて微笑んだセレニアに、セスティアルは美しく着飾った姫君もかくや、という艶やかな笑みを滲ませた。
「お久しぶりです、シェインディア夫人。長い間ご挨拶にも伺えず、申し訳ありませんでした。本当はもう少し頻繁にお顔を拝見しに伺いたいのですが……」
「いいえ。セスティアル様はレイターでいらっしゃいますもの。お忙しいのは当然のことです。どうぞお気になさらないで下さいな」
「お優しいお言葉、痛み入ります」
 差し出された白い手を取り、セスティアルは完璧な作法でその甲に口づけを落とした。そのままカイゼルに視線を移し、どこか楽しそうな表情でくすくすと笑う。
「我が君。あちらでグラウド卿がご夫人方と話しておられましたよ。どうやらトランジスタから馬を飛ばして戻ってきたようで」
「グラウドか。なるほど、後で挨拶に来いと伝えておけ」
「御意」
 銀青の瞳をふわりと細め、優雅な仕草で腰を折ると、セスティアルは黙って控えているシオンに優しい眼差しを投げかけた。稀有な美貌が柔らかい微笑にほころぶ。
「シオン、似合ってますよ」
「え……」
「その格好。まるでどこかの貴族の子弟みたいですね」
「いえ、そんな!」
 あっという間に頬を紅潮させ、ぶんぶんと首を振り出した侍従の少年に、セスティアルは浮かべた微笑をさらに深くした。






    


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