7 そして始まりの鐘が鳴り




 シオンがまとっているのは、うっすらと緑がかった青のシャツに、襟元や袖口に刺繍の施された白の上着、そして左右に銀の線の縫いこまれた黒のズボンだった。
 シャツの色合いは柔らかすぎるほど淡いが、それをかっちりした布地の上着が見事に引き締め、シオンの優しい容貌を際立たせるのに一役買っている。襟足で束ねた薄茶の髪を揺らし、シャツと同じ色合いの瞳を細めて微笑すれば、それだけで舞踏会に集まった多くの少女たちの視線を奪うことができるだろう。華やかでありながら主張しすぎない、シオンの性格をそのまま反映した盛装だった。
 慌てた様子のシオンにもう一度笑いかけ、セスティアルは青みがかった銀の瞳で周囲を見回した。穏やかな口調でおや、と呟き、それすらも優美に細い首を傾げてみせる。
「フィオラ様とシェラナ様はまだいらしてないんですね。盛装を拝見するのを楽しみにしていたんですが」
「あ、はい。準備ができ次第、おつきの方と後からいらっしゃるそうです」
「ああ、なるほど」
 生真面目な態度で答えを返したシオンに、セスティアルは首を傾げたまま納得したように頷いた。癖のない黒髪が細い肩から滑り落ち、燭台の明かりに映えてどこか幻想的な光を散らす。
 シオンは思わず感嘆の息を吐いた。第一位階の騎士としてではなく、一人の臣民として招待されているセスティアルは、常のように見慣れた騎士団の制服をまとっていない。紫のマントだけはそのままだが、その下に藤色がかって見える白の長衣をまとい、腰の部分に宝石をあしらったベルトを巻きつけていた。
 男性としてはかなりめずらしい装いだった。エルカベル帝国における常識として、男性は必要以上に裾が長かったり、襟が詰まっていなかったりする服装を避ける傾向にある。身分が高ければ高いほどその傾向は顕著になるが、セスティアルはそんな常識などどこ吹く風で、薄い布地の裾を膝下まで流し、すっきりと開いた襟元に銀細工の飾りをつけていた。細い手首にも同じ細工の腕輪がはめられ、セスティアルが動くたびに涼しげな音を奏でている。
 どちらかと言えば女性的な格好だったが、セスティアルの中世的な美貌にはこれ以上ないほどよく似合っていた。
 声もなく見惚れるシオンに気づき、不思議そうな表情で瞳を瞬かせると、セスティアルはその背後に佇んでいる主君に視線を向けた。そのまま恭しい動作で足を踏み出し、小声で会話ができる距離にまで歩み寄る。
 稀有な美貌に真剣な表情がよぎった。
「……我が君。軍務長官のブレスト・フォル・フレヴァー卿は西の扉の近くで、典礼長官のメルーシャ・コル・カッター卿は玉座の近くで歓談中のようです。薔薇の間が開放されてからしばらく様子を見ていましたが、取り立てて何かを相談する様子は見られませんでした」
「そうか」
「それから、水上砦シャングレインからシフォード・ロア卿が帰還されたようです。……シフォード卿はあの通りの方ですから、たとえ招待されても舞踏会にはいらっしゃらないと思っていたんですが」
「あのジジイが舞踏会か。ある意味見物だな」
 榛色の瞳に楽しげな色を宿らせ、カイゼルは今どこにいる、と薔薇の間に視線をめぐらせた。それを見やってセスティアルも笑う。
「先ほどテラスの方に出ていかれましたが、たぶん陛下が入っていらっしゃる頃には戻ってくると思います。なにせ真面目という言葉を擬人化して色をつけたような御仁ですし」
 そこで一度言葉を切り、セスティアルは表情を変えないまま声量を落とした。
「それと、『影』が何らかの動きを見せているのは間違いありません。詳しいことは探れませんでしたが、魔術を使っても追いきれない不思議な気配を感じました」
「なるほど、人数は」
「申し訳ありません、そこまでは。……たぶん、一人ということはないと思いますが」
「そうか。ご苦労だったな」
 カイゼルの声音は普段と変わらなかったが、そこには彼に近しい者だけが感じ取れる柔らかさが込められていた。けむるような表情でにこりと笑い、セスティアルはもったいないお言葉です、とひどく典雅に頭を下げる。
 そんな腹心の部下に鋭い笑みを向け、カイゼルは黙って控えている侍従の少年に視線を投げた。
 その視線にいつもとは異なる何かを感じとり、シオンは無言のまま小さく首を傾げた。だが、シオンがそれについて何か言うより早く、深すぎるほど深い青の瞳がすっと流され、薔薇の間にしつらえられた玉座の方へと向けられる。
「来たな」
「え?」
 主君の視線を追い、シオンが玉座の横にある扉に目を向けた瞬間、華やかな喇叭(らっぱ)の音色があたりに響きわたった。
「――――エルカベル帝国第六十二代皇帝、ヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニア陛下、御入来(ごにゅうらい)!」
 皇帝づきの侍従がよく通る声を張り上げ、空気を揺らしていたざわめきを一掃する。すべての参加者が口をつぐみ、息さえつめて見つめる中、美しい透かし彫りのなされた扉が静かに開かれ、その向こうに立つ皇帝の姿をあらわにした。
 ヴァルロのまとう衣装は、カイゼルのそれに近い材質の、ずっしりとした光沢を持つ白い繻子だった。金糸で細かく縁どられたその上に、鈍い輝きを放つ金地のマントと、幾重にもつらなった黄金の装飾をつけ、その堂々としたたたずまいを豪奢に彩っている。精悍な面差しにはうっすらと皺が刻まれ、彼が確実に老いつつあることを示しているが、蒼を湛える眼光はどこまでも鋭く、マントに包まれた背筋はまっすぐに伸び、その絶対的な存在感を周囲に刻みつけていた。
 しん、と静まり返った薔薇の間に足を踏み入れ、ヴァルロは黄金と宝石で飾り立てられた玉座に歩み寄った。彼が落ち着いた動作で腰を下ろすと、ぴんと張りつめていた空気がゆるみ、貴族たちの間からわずかな衣擦れと吐息の音がもれる。
 それが再び静まるのを待ってから、ヴァルロは淡い光に満ちる薔薇の間を見渡し、支配者特有の傲岸な笑みを浮かべてみせた。
「予の忠実なる臣下たちよ」
 腹の底に響く遠雷のような声に、シオンは思わず居住まいを正した。ほとんど条件反射のようなものだったが、隣でカイゼルが泰然とかまえているのを見やり、すぐに強ばっていた体から力を抜く。
 ちらりと視線をやれば、カイゼルの逆隣に立っているセレニアも、その後ろに慎ましく控えているセスティアルも、緊張感とは無縁の風情で玉座の皇帝を見つめていた。それに何とも言いがたい安堵を感じ、シオンは生真面目な表情を作って玉座に視線を戻す。
「また今年も、こうしてそなたたちと親睦を深める機会を得られたこと、予は心から嬉しく思う。今宵は皆、日頃の疲れを忘れ、心置きなく楽しむといい」
「ありがたき御諚(ごじょう)、もったいなく存じます。陛下」
 ゆったりと響くヴァルロの言葉を受け、舞踏会の責任者である典礼長官が礼を取った。それに鷹揚な頷きを返し、ヴァルロは彫像のように出番を待っている楽団へと視線を投げる。
「曲を」
 ヴァルロの言葉はそれだけだったが、まるで機械のような正確さで演奏が始まり、重い静寂は澄んだ音色によって彼方へと追いやられた。潮が引くように参加者たちが退き、開けた中央に三つの名を持つ門閥貴族たちが進み出る。
 普通の舞踏会の場合、まず一曲目を踊るのは皇帝夫妻のはずだが、現皇帝であるヴァルロ・リア・ジス・レヴァーテニアは皇妃を持たない。ヴァルロ自身、亡き妻以外と踊るつもりはないと公言しているため、いつしか舞踏会の一曲目を踊るのは大貴族の役目になっていた。今も、帝国では知らぬ者のない名家の当主たちが、それぞれの妻をともなって皇帝に礼をほどこしている。
「行くぞ、セレン」
「はい、カイザー様」
 当たり前のことだが、ライザード家は帝国でも一、二を争う大貴族である。黒繻子の衣装に緋色のマントをまとったカイゼルと、ほっそりした体を白絹のドレスで包んだセレニアが、堂々とした足どりで広間に進んでいくのを見やり、シオンは誇らしさと感嘆のない交ぜになった溜息を吐いた。
 舞踏会に参加している大貴族は多く、そのすべてが信じがたいほど豪奢な衣装を身にまとっているが、カイゼルとセレニアの華やかさはまた別格だった。ごく自然に広間の中央へと進み、重厚な音楽にあわせて動き始めた瞬間、すばらしいまでの鮮やかさでその場の支配権がふたりに移る。するするとすべっていくドレスの裾も、動きにあわせて翻る緋色のマントも、まるで一幅の絵画のように『薔薇の間』の空気に溶け込み、周囲の視線を強烈に引きつけて離さなかった。
 カイゼルは貴族の当主であると同時に、エルカベル騎士団をたばねる大将軍だった。こうした場にも数多く出席し、宮廷での駆け引きも難なくこなすが、基本的には馬を操り剣をたずさえ、大軍を率いて戦うことの方を好んでいる。それでも、こうして人前に立ってしまえば、それが血みどろの戦場だろうと煌びやかな舞踏会だろうと、一切関係なく見る者の目を奪ってそらすことを許さない。
 それは傲慢なほどに鮮烈な、紛うことなき王者の姿だった。
「……シオン」
 ひどく幸せな気分にひたりつつ、優雅に踊る主君夫妻を見つめていたシオンは、とんとん、と軽い力で肩のあたりをたたかれ、我に返ったように背後を振り返った。シオンの視線をまっすぐに受け止め、空色を湛えるふたつの瞳がにこりと笑う。
 そこに立っていたのは、見事な盛装に身を包み、小さな体で寄り添うようにたたずむ、フィオラ・レオン・シェインディアとシェラナ・カイン・シェインディアだった。
「フィオラ様、シェラナ様」
 慌てて体ごと向き直り、踊りに見入る出席者たちの邪魔にならないよう、ひかえめな動作で頭を下げる。
「いらっしゃってたんですね。申し訳ありません、それならお迎えにあがるべきでしたのに……」
「ううん、大丈夫だよ。こういう場所には慣れてるし」
「ふたりだけで来たわけじゃないから」
 ね、とよく似た顔を見合わせ、金髪の双子は天使のような容貌をほころばせた。見れば、やや離れた位置の壁際に、何度か目にしたことのあるシェインディア家の従者がひかえている。シオンの視線に気づいたのだろう、ほんのわずかに目元をゆるませ、壮年の従者は小さく頭を下げてみせた。
 安堵するシオンをよそに、どこか困ったように首をかしげ、フィオラは広間の中央へと視線を転じた。
「でも、ちょっと遅くなっちゃったかな。始まる前に父上様と母上様にごあいさつしたかったのに」
「うん。父上様と母上様の盛装姿、もっとちゃんと近くで見たかったね」
 あとでごあいさつに行くのが楽しみ、と頬を染めるシェラナに、フィオラは兄らしい表情で柔らかく笑った。そこでなにかに気づいたように首をめぐらせ、やや高い位置にあるシオンの瞳を振り仰ぐ。
「そういえば、シオン。セスは?」
「え。あ」
 そこで初めて、近くにいたはずのセスティアルがいなくなっていることに気づき、シオンは小さく両目を瞬かせた。
「先ほどまでこちらにいらっしゃったんですが……いらっしゃいませんね」
「セスにもあいさつしたかったんだけどな」
「セスティアル様もお忙しいんだね」
「ですが、セスティアル様もお二人の盛装姿を拝見したい、とおっしゃってましたよ。ご用事が終われば、必ずあいさつにきて下さると思います」
 残念そうな顔を作ったふたりだったが、なだめるような響きのシオンの言葉を受け、すぐにそうだね、と嬉しそうな笑顔を浮かべた。




    


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