荒れ野に御使い 2


 


「とりあえず、座っとけ。何か飲み物作ってやるから」
 ぽんと投げかけられた拓馬の声に、少年は戸惑った表情で周囲を見回しつつ、部屋の中央に置かれた木製の椅子を引いた。
 司令官の地位は伊達ではなく、拓馬の部屋はかなりの広さを持った個室だった。ダイニング、キッチン、寝室、洗面所とは別になったトイレなど、下士官の大部屋などとは比べ物にならない豪華さを備えている。もっとも、食事はすべて基地内の食堂ですませてしまうこともあり、寝室以外は完全に無用の長物と化しているのだが。
 ほとんど物の入っていない棚をひっくり返し、拓馬は懸命になってインスタントのコーヒーを探した。だが、半年前まではあったはずのそれが影も形も見当たらず、結局は発掘に成功した紅茶のティーバックをカップに放り込む。ポットに湯が入っていなかったため、水をレンジで沸騰させるという荒業に出て、拓馬はようやく二人分の紅茶を入れることができた。
「悪いな、紅茶しかなかった。っていうか、紅茶飲めるか? あとは水くらいしかないんだが……」
 自業自得とはいえ、自室のあまりの物のなさに軽く眉を寄せながら、少年の前に紅茶の入ったカップを置いた。
 少年はそれにも気づかない様子で、ある一点に驚愕の眼差しを向けていた。首を捻ってその視線を辿ってみると、低い棚の上に小さな電子レンジが鎮座している。あれがどうかしたのか、とますます訝る拓馬に、少年は漆黒の瞳を瞬かせて感嘆の息をついた。
「妙な装置だな。火にもかけず、水を湯に変えることができるのか」
「…………」
「ああ、すまない。お茶を入れてくれたんだな、ありがとう」
 ようやく眼前の紅茶に視線を向け、少年はふわりと微笑を浮かべた。妙な表情で電子レンジと少年を見比べる拓馬に構わず、流れるように優雅な仕草で受け皿からカップを取り上げる。長い睫毛を伏せ、カップの縁にそっと唇をつけるその動作も、何の映画の撮影かと思うほどに様になっていた。
 諦めたように首を振り、向かい側の椅子に腰かけた拓馬に向かって、少年は湯気の向こうで漆黒の双眸を細めてみせた。
「不思議な味だが、とても美味しいと思う。これは何ていう葉なんだ?」
「…………あー、ダージリン? アールグレイ? よくわからないが、そんなところじゃないか?」
 知っている紅茶の名称を適当に並べ、拓馬もカップに口をつけた。少年の優雅さとはかけ離れた自分の動作に、そんな必要はないと思いつつも微妙に落ち込んでしまう。少年はそんな拓馬を見つめると、困ったように髪を揺らして首を傾げた。
 まさか紅茶の名前も知らないのか、と顔をしめかる拓馬に、少年はゆるやかに瞳を伏せて嘆息した。
「困ったな」
「あ?」
「やはり、私はずいぶん遠いところに迷い込んでしまったらしい」
 早くデュロスに帰らなければならないのに、と呟く少年の表情は、冗談の類には見えないほどに真剣で、憂いを帯びていた。
 自分が悪いわけでもないのに罪悪感を刺激され、拓馬は片手に顔を埋めながら少年を見遣った。
「……なあ、お前」
「レシェリクト」
「は?」
「お前、ではなくてレシェリクト・フィル・デュロスだ。呼びにくいなら縮めて呼んでも構わないが、いつまでも『お前』呼びはやめてほしい。せっかく名乗ったんだから」
 湛えていた憂いの色を拭い去り、少年はかすかな苦笑を浮かべて拓馬を見上げた。
 やはり、この十三地区の人間ではありえないその名前に、拓馬はやや迷うような表情を閃かせた。だが少年の様子は真面目で、偽名を名乗って拓馬を欺こうとしているようには見えない。それどころか自分の名に誇りを持っている者の表情だった。拓馬はしばしの沈黙のあと、何かを諦めたように軽く息をついた。
「……縮めて呼んでもいいのか?」
「ああ、構わない。私もあなたをタク、と呼ばせてもらうのだから、おあいこだろう?」
「じゃあ……」
 レシェリクト、という長い名前を口の中で繰り返して、拓馬は自信なさげに視線をさまよわせた。
「レイ、でもいいか?」
「レイ?」
 少年は驚いたように漆黒の瞳を見張った。予想もしない言葉だったからだ。
「別に構わないが……どうしてレイなんだ? 普通、レシェリクトを縮めたらレシェルになると思うんだが」
 実際、少年は幼い頃母にレシェルと呼ばれていたことがある。不思議そうな表情で首を傾げる少年に、拓馬は再び大きな溜息をつくと、真剣な表情になって少年を見下ろした。そのまま子供に言い聞かせるというより、対等な相手に理解を求めるような調子で口を開く。
「レシェルじゃ、お前がここの人間じゃないってバレバレだろう? 幸い、ここじゃお前みたいな黒髪、黒目の人間は珍しくない。妙な行動を取らなきゃ怪しまれることもないはずだ」
「……え」
「何だよ、行くところがないんだろ? で、帰り方もわからないんじゃ、しばらくここにいるしかないだろうが」
「……え?」
 本当に驚いた様子で目を見開く少年に、拓馬はどこか照れたようにダークブラウンの瞳を逸らした。
「いくらお前がでたらめに強いって言っても、十五かそこらの子供を放り出すわけにもいかないしな。まあ安全な場所とは言えないが、帰る方法がわかるまではここにいていいぜ」
 恒久的な軍事施設である基地には、戦災孤児たちを保護して施設に送り届けるための設備も整っている。だが、この少年は明らかに戦争で親を失った子供には見えず、保護しなければならない弱々しい存在とも思えなかった。だからこそ、前線基地であるここに置いても何ら問題はないだろう。拓馬はそう思い、拾ってきてしまった少年へ言ったのだ。
 ここにいて構わない、と。
 少年は両手でカップを包みこむようにして沈黙していたが、やがてその黒玉の瞳で真っ直ぐに拓馬を見上げた。
 吸い込まれそうに透徹した色彩が、柔らかな微笑にふっと和む。
「……それじゃあ、これからは『レイ』と呼んでもらえるか、タク?」
 拓馬が視線を戻すと、少年は穏やかに微笑を湛えたままで言葉を続けた。
「とはいっても、無条件で置いていただくのは心苦しいからな。何か、私で力になれることがあれば遠慮なく言ってほしい」
 私には戦うことくらいしかできないが、と静かにささやいて、少年は口元に淡く苦笑を浮かべた。
 確かに、少年の戦闘能力には目を見張るばかりだった。特殊訓練を受けた軍人でも、この若さでこれほどの力を手に入れることは難しいだろう。そこまで考えて、拓馬は何かを思いついたように瞳を瞬かせた。
「そうだな、じゃあ」
「何だ? 何でも言ってくれ」
 真面目に答える少年を見遣って、拓馬の双眸が笑みに細められた。
 黒とも見紛うガークブラウンの瞳に、かすかに楽しげな色を過ぎらせて。
「お前、ここで働けよ。入隊試験も受けてないヤツを軍に入れることはできないが、その辺はまあ、どうにでもなる。同盟軍上層部から送られてきた特殊な兵士、とか言っとけば誰も疑わないだろうしな」
「……働く?」
「ああ、お前は戦えるんだろ? 帰る方法がわかって、お前の生まれた国に帰れるまででいい。軍人としてここで働いていけよ」
 拓馬がそう言ったのは単なる思いつきだった。
 先ほどの、銃弾の飛び交う中で舞うように戦い、屈強の兵士たちを地に沈めてみせた少年の姿が、網膜に焼きつけられたように瞼裏から消えなかった。きっと、この少年ならば戦場に出ても死なないだろう。そんな確信を抱かせる何かが、眼前に座った少年には確かにあった。
 何より、少年の漆黒の瞳は『戦うこと』を知っている者の目だった。
 ただ体を鍛えてあるだけではなく、知識として戦場を知っているだけでもない、実際に自分の手で戦いを勝ち抜いてきた者の光が、少年の綺麗な双眸には揺るぎなく宿っていたのだ。
 じっと拓馬を見つめていた少年は、やがて白く細い手をするりとカップから離し、目の前に座る青年の前に掲げてみせた。
「……レイ?」
 軽く目を見張る拓馬に、少年はにこりと端麗な口元に微笑を過ぎらせた。
 その笑みは、先ほどまでの柔らかいものとは異なり、少年の芯の強さを伺わせるには充分なほど強く、不敵なものだった。
「そうだな。それでは、これからよろしく頼む。雇い主どの」
 返されたのは、拓馬の申し出に対する肯定の言葉だった。
 拓馬は一瞬だけ目をしばたたかせたが、すぐに少年の意図を悟り、小さく微笑してその白い手を握った。滑らかな手が見た目に反して硬く、ナイフを握る者のそれに酷似していることに気づき、やはりこの少年は戦う者なのだと確信する。
「契約成立だな、レイ」
 楽しそうに告げられた拓馬の声に、少年……レイも、輝くような笑みに口元を彩らせた。




 パタパタと軽い音を立てて走っていた少女は、大きな瞳を悲しげに細めて唇を尖らせた。
「……お星さま、きえちゃったー」
「なぁに? なに言ってるの?」
 もう朝でしょう、と優しくたしなめてくる母親に、空を見つめながら走っていた少女はくるりと振り返ると、その桜色の頬をぷっと膨らませた。
「ちがうもん、いっこだけお星さまがのこってたもん。朝になってもきえちゃわないお星さまは、お願いごとをかなえてくれるだって言ってたもん!」
「……ああ、明けの明星のことね? ふぅん、お母さん知らなかったな。お願いごとが叶うって、誰に教えてもらったの?」
「レシェリクトさま!!」
 少女の顔が明るく輝いた。デュロスの綺麗に舗装された道で飛び跳ね、ひどく嬉しそうに大きく手を広げてみせる。その言葉に母親の顔が曇ったが、少女は気づかずに懸命に言葉を続けた。
「レシェリクトさまがゆってたの! 朝になってものこってるお星さまはね、お願いするとちゃんとかなえてくれるんだって。……でも、きえちゃったね」
 ざんねんだねーと同意を求めてくる少女に、母親も柔らかく微笑んでその頭を撫でた。
 どこか悲痛な、痛みをこらえるような微笑を浮かべて。
「そうだね、残念ね。きっと、誰かのお願いごどを叶えてあげたから、今日はもうお終いになっちゃったのね」
「お星さま、だれかのお願いをかなえてあげたの?」
「うん、きっとそうよ」
 そのまま娘の手を取ってやると、少女は嬉しそうに母の手にすがって笑い出した。親子で連れ立ってデュロスの道を歩きながら、母親は静かに明けの空へと眼差しを向ける。そこにはもう、朝日にも負けずに輝く白い星はなかった。






    


    

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