神様がいなくても 1


 


 どこまでも冷たい冬の風に、まっしろな雪の花びらが舞う。それは葉を落とした木々を色づけ、大地に薄い化粧をほどこし、皇国デュロス全体を真冬の色に染め変えていく。目に映る光景はひどく美しいものだったが、ジルファードは肩に積もった雪を払い落とし、曇天を見上げながら小さく溜息を吐いた。深緑の瞳がいまいましげに細められる。
「雪か……」
 城下町では子供たちが顔を輝かせ、大人の手を振りきって外に飛び出しているだろう。はしゃぎたくなる気持ちはわからなくもないが、子どもたちにとっては天然の遊び道具である雪も、騎士たちにとっては単に訓練をさまたげる厄介者に他ならない。しばらくは止みそうにない雪を見つめ、ジルファードはそういえば、と涼しげな双眸を瞬かせた。
「レシェリクトさまは雪がお好きだったな。暇ができると城を抜け出して、子供たちに雪を使った遊びをお教えになったり、いっしょになって雪合戦をしたり。……まあ、それもずいぶんと昔のことだが。なあ、シアン?」
「……なんだ、気づいていたのか」
 振り向きもしない同僚に肩をすくめて、シアンは窓枠についていた頬杖を外した。そのまま大きく窓を押し開き、騎士とは思えない行儀の悪さでそれを乗り越えると、薄く雪の積もった中庭にひらりと降り立つ。
「この分じゃあ今日の訓練は中止だな。……確かに、レシェリクトさまは喜びそうな天気だが」
「ああ」
「――――なあ、ジル」
 不ぞろいな黒髪をかき上げ、シアンは降り続ける雪に赤銅色の瞳を向けた。いつから屋外にいたのか、マントや金髪、紺色の騎士服まで白く染まっている同僚に歩み寄り、ごく自然な態度で隣へ並ぶ。
「おれの覚えているレシェリクト様の表情は、雪を見て嬉しそうに笑った後、こちらに気づいて『訓練の邪魔になるな、雪かきをしなくては』って苦笑まじりに言う、大人びた顔なんだ。いつからだっけな。あの方がそんな風に……心のままに行動できる、幼い子供であることをやめてしまったのは」
 デュロスの国民は十七で成人するが、皇族だけは特別に十三で大人だと認められる。レシェリクトが成人の儀を執り行い、自らの手で政務にたずさわるようになったのも、総大将として軍の陣頭に立つようになったのも、彼が十三の年を数えたほんの二年前のことだ。即位したのはさらに昔、レシェリクトがたった八歳の時である。
 十にも満たない年齢で父を失い、王として民を、臣下を、そして国そのものを愛さねばならなかった少年は、穏やかに笑ってそのすべてを受け入れてしまった。だから大人たちは縋ったのだ。自分たちよりもずっと幼い少年に。敬愛され、慕われることはあっても、大人に愛されることはなくなってしまった子供に。
「私たちのせいだろうな。私たちが甘えてしまったからだ。あの方の強さに。昔、まだ前王陛下がご健在だった頃、レシェリクトさまの無邪気な笑顔にどれだけ癒されたか知れないというのに」
「仕方がないことではあったけどな。おれたちには王が必要だった。戦を勝利に導き、デュロスを守り、民の生活を保障してくれる王が」
 あまりにも当たり前なその願いが、誰よりも守りたかった少年王から『子供』の顔を奪ってしまった。どちらからともなく眉を寄せ、降り止まない雪をにらみつけると、二人の騎士は髪を揺らして首を振った。ジルファードが静かに口を開く。
「やるせないのは、あの方がそれを不幸だと思っておられないことだ。あの方は愛されることなど求めていなかった。……いや、もしかしたら求めておられたのかもしれないが、それを周囲に感じさせず、全身全霊をかけてわれらを愛して下さった。だからかもしれないな、あの方がひどく、喪失を嫌うのは」
「そうだな。レシェリクトさまはいつも、自分に近しい誰かを失うまいと必死になってる。あのアルスランドとの戦の時だって、騎士の一人を庇って崖から落ちたんだろう? 多分、そうしてしまったのはおれたちだろうな」
 シアンが無骨な手を伸ばし、ひらひらと舞い落ちてきた雪を受け止めた。すぐに水滴へと変わってしまうそれを見つめて、どこか悔しげに拳を握り締める。ジルファードも雪に手を伸ばしかけたが、途中で思いとどまったように腕を下ろし、隣に立つ同僚へ小さく笑みを向けた。
「――――まあ、私たちがこうやって悔やんだところで、あの方の本質がそう簡単に変わるものでもないしな。……もう戻ろう、シアン。いつまでもこんなところに立っていると風邪をひく」
「……おいおい、おれは出てきたばっかりだぞ? ずっと突っ立ってたお前がそれを言うか」
 すっかり雪をかぶっているジルファードに苦笑して、シアンは祈るような表情で空を透かし見た。そして気づいてしまう。今まで神に祈る必要がなかったのは、あの少年が細い手で彼らを導き、守り、愛する者たちの願いを叶えようと必死になっていたからだ。本当に頼りきりだったんだな、と自嘲めいた笑みを漏らして、シアンはそれを振り払うように頭を振った。
「戻るって言ったって、どうせまた『あそこ』に行くんだろ?」
「ああ。もはや日課のようなものだからな」
「そうだな。……あれ以来の、日課のようなものか」
 ゆっくりと顔を見合わせ、何とも表現しがたい顔で笑みを浮かべると、二人の騎士は雪の積もる中庭で踵を返した。雪の影に見え隠れする石畳を踏み、迷いのない足取りで奥へと進んでいく。二人が向かう先にあるのは、降りしきる雪よりもなお白く輝き渡る、鏡面のような石造りの塔だった。


 

 同盟軍の恒久的な軍事施設、自由なる場所リバティ。そこに輸送機が到着し、新たに配属される兵士や武器弾薬、数トンに及ぶ携帯食料、そして『閣下』の称号をおびる高級軍人が降り立ったのは、冬の気配が強まる十二月の終わりのことだった。
 士官たちがずらりと並び、兵隊の見本のような見事さで敬礼する中、輸送機から軍服姿の青年がゆっくりと歩み寄ってきた。拓馬の数歩後ろにひかえ、目立たないように気配を薄れさせながら、レイは現れた青年を注意深い眼差しでうかがい見る。やや灰色がかった金髪に青い瞳、拓馬や比呂よりも明らかに色素が薄い白皙の肌、鍛え上げられた軍人らしい長躯。黒地のいたるところに銀を配し、胸元だけに金で王冠をかたどった軍服も、すらりとした足を包むブーツも、布地をかざるいくつもの勲章も、すべてが自信と覇気にあふれた青年を引き立てているようだった。
 セシル・ウィンフィールド。同盟軍中将の地位にあり、『将軍家(ゼネラルズ)』の若き幹部でもある青年軍人は、敬礼している拓馬の前でぴたりと足を止めた。口角が笑みの形につりあがる。
「久しぶりだ、テンジョウ少佐。戦況に今のところ変わりはないか?」
「イエス・サー」
 表情をぴくりとも動かさず、拓馬は敬礼したままで簡潔に答えてみせた。レイは内心で首をかしげる。セシルが軍部における上官である以上、拓馬が礼儀を守って接するのは当然のことだが、それにしてはあまりにも感情がこもっていないように見えたからだ。それを見やって皮肉げに笑うと、セシルは数センチほど低い位置にあるダークブラウンの瞳見下ろし、威圧的な動作でひとつ頷く。
「第十三地区制圧部隊前線基地、自由なる場所『リバティ』の駐在司令官の任にあって、『SーW』をはじめとした多くの敵軍基地の奪取など、貴官の戦功はすばらしいものだ。統合作戦本部長も喜んでおられる」
「アイ・サー。光栄です、閣下」
「私も、『ウィンフィールド』の名に連なる者として鼻が高いよ、少佐」
 そう言ってセシルが笑った瞬間、拓馬が脇に下ろした拳を握り締めたのに気づき、背後にひかえていたレイは小さく目を見張った。そして悟る。拓馬はこの青年に会いたくなかったのだ。数日前、部屋に戻ってきた拓馬の機嫌が悪かったのはこのためか、と胸中に呟き、レイはぶしつけにならないように二人のやり取りをうかがう。拓馬の怒りに気づいているのかいないのか、セシルは喉の奥で低く笑い声を立てると、睨みつけてくる瞳からわずかに視線をそらした。青い双眸がレイの眼差しをとらえる。
「この少年が『レイ』か、テンジョウ少佐?」
「……イエス・サー」
「そうか」
 射抜くように向けられるセシルの視線に、レイはほんのわずかな居心地の悪さを感じた。気圧されたわけではない。ただ背筋を蟻が這っていくような不快感を感じ、自分でも無意識のうちに漆黒の瞳に力を込める。それだけで場に満ちる空気が変わった。ひどくあいまいに漂っていたものから、張り詰めた透明感と揺るぎない指向性を持ったものへ。
「――――はじめまして、貴官にお会いできて光栄に思う。セシル・ウィンフィールド中将閣下」
 それはただの少年が浮かべられるものではない、多くの者を従える王者の表情だった。ふっと青の双眸に興味の色を過ぎらせ、セシルはゆっくりとレイに向き直る。拓馬がきつく眉を寄せるのにも構わず、美貌の少年を見下ろしてうっすらと微笑した。
「こちらこそ、はじめましてと言っておこうか。本来ならば上官に対して許される口のきき方ではないが、それはあえて不問にしよう、レイ。独立国家同盟、そしてわが『将軍家(ゼネラルズ)』は、リバティの士官として君を歓迎する。……ああ、テンジョウ少佐」
 最後の部分は拓馬に向けてささやき、セシルはひややかに整った面差しを軽く傾けた。
「貴官だけではなく、この少年とも話がしたい。物資の運び込みや新兵の配置をすませしだい、貴官らには私のところへ来てもらう」
「……っ、な、閣下、お言葉ですが、レイは……!」
「命令だ、テンジョウ少佐」
 その一言で相手の反論を奪い、口元だけで笑う冷たい表情を浮かべると、セシルは拓馬の横を通り過ぎながら小さく呟いた。拓馬にだけ聞こえるひそやかな声音で、その反応を楽しむように。
「楽しみにしているよわが義弟(おとうと)どの」
「――――……っ」
 一瞬だけ拳を震わせた拓馬に笑みを向け、セシルはレイを見やってから建物の方角へ歩き出した。多くの護衛たちがその後に従う。少しずつ遠ざかっていく背中を見つめながら、レイはゆっくりと視線を持ち上げ、ためらいがちに形の良い唇を開いた。
「タク?」
「……いや、なんでもない」
 どこかぎこちない表情で微笑すると、拓馬はぽん、と軽い動作で手触りのよい黒髪を撫でた。
「なんでもない。気にするな、レイ。……とりあえず、後で中将閣下のところまで行かないとな」
 拓馬の口調はいつも通り優しげなものだったが、ダークブラウンの瞳だけはひどく厳しい光をたたえていて、レイの胸中に冷たい予感を過ぎらせずにはいられなかった。






    


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